◇◇【トゲ:苦痛(悩み)の種】を強味に活かす【キリスト精神】(その1)◇◇
【2003年7月26日に作成した<第310回>より】
●高慢にならないように、私の肉体に一つのトゲが与えられた。それは、
高慢にならないように、私を打つサタンの使いなのである(コリント後書12‐7)
中東のはずれで生まれた【ユダヤ人の福音】を【全人類救済の福音】にまで
導いてくれた偉大な【先駆者】であるパウロに学ぶべき事がたくさんあります。
私にとって特に学べることは、あのパウロでさえ「トゲ:苦痛(悩み)の種」が
あって、自分の最大の弱点に思える克服できない【トゲ】にこそ【神の愛】を
見出して【トゲ】を抱いて偉大なチャレンジができたという事実です。
パウロにとっての最悪の弱点であった【トゲ:苦痛(悩み)の種】とは、視力が
とても弱かったことだと聞きます。
【主イエス】を知らなかった頃の若きパウロは、ユダヤ戒律原理主義者として
【反キリスト】の先頭に立って、キリスト教徒を弾圧・迫害する活躍によって、
ユダヤ教徒として誉れ高い【人生の絶好期】にありました。
しかし突如、【神の愛】に捕えられます。その時【強い光】を受けて、三日間も
失明状態になった体験が彼の視力をほとんど見えなくしてしまう原因になったと
私は信じます。(使徒行伝9-1~19)
視力は完全に復活しなくても、パウロの目からはウロコが落ちて真実を見出せる
【心の眼】が開かれ【神の愛】を理解できる【正しい視力】が回復したのです。
●サウロの目からウロコのようなものが落ちて、元通りに見えるようになった。
(使徒行伝9-18)
どんなに肉体的視力が健康でも【真理:主イエス】を見出せる【正しい視力】が
弱かったので【反キリスト】であったパウロは、目覚め【キリストの愛】の側に
立てた時に、今度は肉体的視力が最悪の状態で苦しむことになったのです。
「私の視力さえ善ければ、私はもっと思い通りの伝道活動ができるのに・・・」
勇気も実行力もあるのに、何故この視力だけが思い通りに行かないのか?という
無念さを皆さんも理解できると思います。
●このことについて、私は彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
(コリント後書12‐8)
ところが、【神の愛】に忠実で【主イエス】に愛されていたパウロは気づくのです。
●ところが、主が言われた「私の恵みはあなたに対して充分である。私の力は弱い
ところに完全にあらわれる。」それだから、キリストの力が、私に宿るように、
むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう(コリント後書12-9)
私たちも自分自身が嫌いな欠点や弱点から、人生において簡単には解決克服できない
【トゲ:苦痛(悩み)の種】がたくさんあると思います。
「~さえなかったなら…」「~さえあればできるのに…」「~が悪いのだ!」
そして、自分の心にひっかかる【トゲ】こそが「諸悪の根源」のように思い込んで
【ビジョン:理想・夢・志】に向かってチャレンジできない言い訳になりがちです。
●なすべきことを欲しはするが、それを成し得ない
なすべきことを成し得るが、それを欲しない
欲しかつ為し得るが、何を為すべきかを知らない(ゲーテ)
●人の生活はすべて次の二つから成り立っている
したいけれど、できない。できるけれど、したくない(ゲーテ)
パウロに学べることは、【主イエス】を心に受け入れれば、この世での一切の不安や
悩みは解消されて、晴れ晴れとした日々を送れるわけではないのだという事実です。
【神の愛】を受け入れることは、同時に自分が一番見たくも触れたくもない自分の
【闇:弱さ・不完全】を自分自身や世間からも思い知らされて、惨めさや無力感や
自己嫌悪で嘆き、自分の弱さを痛感させられることを覚悟するべきだと思います。
●だから、私はキリストのためならば、弱さと侮辱と危機と迫害と行き詰まりとに
甘んじよう。何故なら、私が弱い時にこそ、私は強いからである。
(コリント後書12-10)
●批評せらるる者となれよ、批評する者となるなかれ(内村鑑三)
●我々は敵の鋭い監視の下に生活するときにのみ、克己、厳しい正義愛、自分自身に
対する不断の注意といった大切な諸徳を知り、かつ行うことを学ぶのである
(ヒルティ)
私自身は【罪人のかしら】で無力で情け無くても、私の信愛できる【主イエス】は
完全なる【真実】であることを誇れるからこそ、倒れても前進し続けられるのです。
●たとい私たちは不真実であっても彼(主イエス)は常に真実である。彼は自分を
偽ることができないからである(テモテ後書2‐13)
【神の愛】に目覚めてから、いつも心にひっかかる【トゲ:苦痛(悩み)の種】こそ
実は自分自身の【タレント:個性・才能・可能性】であり、【トゲ】を活かす事が
【使命・天職】に通じる道であることは多くの体験談を見聞きして実感できます。
曽野綾子さんは近著で「エゴを他人のために使え!」というような内容を述べたと
聞きますが、【エゴ:自己中心】を最大の【トゲ】とする私自身には【福音】です。
私は【この世の富・権威・名声】にはつまづきやすく、権力の不正のために抗議して
立ち向かうほどの【社会的正義感】は乏しくて、目の前の見知らぬ【隣人・社会】を
積極的に進んで助けるほどの【ボランティア精神】もありません。
しかし、【主イエス】はそんな無力で臆病で【トゲ】に苦しむ私にも【チャンス】が
用意されていて、いつも励ましてくれていると信じるのです。
たとえば、【不正の富】で友を作れ!という「たとえ話(ルカ伝16‐1~13」には
勇気や希望を与えられ感動します。
皆さんもご存知とは思いますが、主人に隠れ財産を無駄使いしていた不正の管理人が
主人から解雇されそうになります。
彼は管理人の仕事を失うと、生活のために新たな辛い仕事をするには力も勇気も無く
このままでは生活が困窮するのが目に見えていました。そこで、彼に思いついた事は
主人への負債のある人々の負債をそれぞれ減額して行くのです。そうすれば、彼らが
主人に解雇されて生活に困った彼の面倒を見てくれるだろうと考えたからです。
主人は「不正の管理人」のこの世渡り上手な行為を高く評価して誉めるのです。
●不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が
なくなった場合に、あなた方を永遠の住まいに迎えてくれるであろう
(ルカ伝16-9)
私はこの「たとえ話」について最近次のように前向きに解釈しています。
★主人 =【神様・神の愛】
★主人から預かる【財産】=【神の愛】を受け入れられる【信・望・愛の心】や
【タレント】【ビジョン】【使命・天職】
★不正の管理人 =【財産】を【エゴ:自己愛】で浪費したり出し惜しむ人
★主人への負債 =【トゲ】や人生苦で【神の愛】から遠ざかっている状態
★不正の富 =【この世の富・権威・名声】や【エゴ:自己愛】の産物
キリスト教でいう【罪】の語源とは【神の愛】に対する【思い違い】であるそうです。
つまり、本当は【恩恵:神の祝福】や【試練:神の導き・訓練】である現在の境遇を
失望や不信感で不幸な状況だと見誤って、【神の愛】から見放されたと思い込んだり、
神はいないと勘違いして【この世の富・権威・名声】を最優先に頼って【神の愛】に
背をむけてしまうことだといえるでしょう。
せっかく【神の愛】から託された【財産】を無駄使いや出し惜しみしている私自身も
【罪=不正の管理人】でも、それでも再起・再出発できる【チャンス】があることが
示されています。
自分の【魂:善意・良心】に反し、本来の【ビジョン:理想・夢・志】からほど遠い
形で得られた、一方で世間では通用する誉れ高い【不正の富】で人々を助けることで
【神の愛】に対しての罪滅ぼしや恩返しができるという【チャンス】です。
私自身や【隣人・社会】にも【神の愛】に反し【神の法廷:最後の審判】に立てば、
裁かれる【負債=罪】だらけです。
「そんな事とは知らなかった」「私は勘違いしていた!」「止む終えなかった」と
【最後の審判】で初めて【神の愛】を知って弁明しても手遅れになりかねません。
そこで、私たちには自分自身の【不正の富】を有効活用して、見誤っている多くの
【隣人・社会】を【神の愛=善】に導く【福音伝道】の【チャンス】があるのです。
★★【その2】につづく★★