【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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【神愛福音道】【聖書価値観】<神愛価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】

<ユビキタス>の【神の愛】【1】

◇◇ユビキタス:【神の愛の摂理】はどこにでも示され現わされている(その1)◇◇
【2005年7月8日に作成した<第338回>より】
●もしもあなたがあらゆるものにイエスを求めるならば、必ず(そこに)イエス
 見出し得よう(トマス・ア・ケンピス)
●視よ、我は世の終わりまで常に汝等と共に在るなり≪WithYouAlways≫(マタイ伝28‐20)
●神は時おり、自然の出来事や自然の事物を通して、私たちに話しかけることもある(ヒルティ)
●神の見えない性質、すなわち、永遠の力と神性とは、世界が造られた天地創造
 このかた被造物に現われており、これを通して神を知り明かに認めることができる(ロマ書1-20)

長崎県佐世保の児童による傷害事件を契機に、当地の小学校で「命の授業」を始めたと
TV報道されていました。今後は文部省により全国で展開する計画もあるようです。
子供たちにアンケートをしたところ、学校の先生や企画した大学教授も文部省までもが
驚きの結果が出たために当惑していることがTV報道では紹介されていました。
彼らの70%が「死んだ後も【生命】は終わらない気がするし、よみがえりを信じる」
という【来世・復活・永遠の生命】は存在する!という感覚を持っているのです。
大切な一度だけの「人命」は死んだら取り返しのつかない事を自覚しておくべきだ!と
教育現場の人々も学識経験者やメディアの関係者も懸念して問題視しているようです。
ご存知のように、殺害した加害者は「被害者に直接に会って謝罪したい」と弁護士との
殺害直後の会談で話していた事との因果関係として「やっぱり!」と思ったのでしょう。
子供たちに「一度死んでしまったら【人命】は取り返しのつかない完全な終わり」だと
思わせないと、同じような殺害事件が再び起きるに違いないと思っているようです。

私は感動して改めて納得ができました。それは【真理】は教えなくても知っている!
という驚くべき事実です。ハレルヤ!主に栄光を帰します!
●私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる(ヨハネ書11‐25)

子供たちがアンケートで回答した「【生命】は死んだ後も終わらない」という感覚は
【真理】に従っていて全く「正しい」感覚だと私は改めて感動しているのです。
経験も知識も乏しく、社会的にも自己形成も未熟に思われる「幼な子」たちであるから
かえって、経験と知識に豊かな「大人」たちよりも、素直で【神の愛】に近い証明です。
(マタイ伝19-14、マルコ伝10-13~16、ルカ伝18-15~17)
●知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子のような者にあらわした(マタイ伝11-25、ルカ伝10-21)
●私たちは幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、幼な子
 らしく考えていた。しかし、おとなになった今は、幼な子らしい事を捨て去った(コリント前書13-11)

子供の素直な感覚を否定して、社会通念である「死んだら、何もかもおしまいだ!」と
思わせれば、自分自身も他人の【人命】も大切にして、殺害がなくなるのでしょうか?

私は子供から死後の【来世の存在】や【復活】【永遠の生命】の可能性を否定する方が
人生の苦難に直面した時に悲観的・絶望的になり自暴自棄になるのではと心配します。
世界中で多くの先人偉人が献身して伝道してきた【真理】に反して危険だと感じます。
【人命】の大切さを自覚させたければ、「進化論」的常識にあるような私たちの祖先は
共通の「アメーバ」が突然変異して、魚になり、上陸してやがて「サル」となってから
現在の「人間」が偶然奇遇の連続で幸運にも存在していると思わせていることのほうが
最も危険ではないでしょうか。美しき気高き【神の愛の摂理】が感じられないからです。

【この世】の出来事や【天然】を素直に見つめるなら、間違いなく【神の愛の摂理】を
実感できるはずです。心騒がしく忙しくしていては気づかず見落としやすい「空気」の
ような存在でありながら、実は【生命】にとって絶対不可欠な【見えざる存在】である
【神の愛の摂理】を認めるべきでしょう。
【この世】の全ての事象・出来事も【天然】も【神の愛】から生まれ【神の愛】を示し
【神の愛】に帰るために用意されている!と実感できる事を私は心から祈っています。

●万物は、神により神から出で、神によって成り神に保たれ、神のために存在し、
 神に向かって帰する。栄光が世々限りなく神にあるように。アーメン(ロマ書11-36)

私たちは生まれながらにして、教えられなくても【この世】の人生が何と果かないかを
自覚させられるのではないでしょうか。そして、情報過多な現代社会においては実際に
社会参加する前に、若くして将来への希望さえも抱くには困難な時代かもしれません。

従って【この世】は最終目的地ではなくて【この世】で生きるとは【旅行者】のように
【寄留地】でしかなく、本当に立ち帰るべき地である私たちの【故郷:来世・天国】を
目指すように、互いに励まし助け合って生き生きと生きぬこうではありませんか!

●これらの人はみな、信仰を抱いて死んだ。まだ約束のものを受けていなかったが
 はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを
 自ら言い表した(ヘブル書11‐13)

単なる偶然と幸運だけで「生きている」実感を抱かせ【命】を大切にしようというのは
子供たちには、あまりにも酷だと私には感じます。

犯罪を決行した青年の多くは「命とは何か?」を自分で確かめたいという強い好奇心から
あたかも【神:創造主・真理・神の愛】への問いかけであり挑戦であったように思えます。
ある若者がTV番組で出演して「何故人を殺してはいけないのか?」という質問をして
出席していたコメンテータの一人は怒りを表して「いけないに決まっているだろ!」と
若者に返答しましたが、若者は納得できないような表情をしていたことを思い出します。
その後「何故人殺しをしてはいけないか?」と質問をした発言者に対して多くの有識者
様々な観点から批判的回答をしているようです。

最近ある仏教的思想にある有識者は「人命」だけを尊重するような価値観を持つ事は
西欧キリスト教的価値観であり、【この世】のあらゆる「生きとして生けるもの」に
【慈悲の心】を持つべきであり、人命だけでなく全てに「無殺生(ムッセショウ)」を
心がけるべきだ!と主張していました。果たして現実的にそんな事は可能でしょうか?
子供たちに全生物の「無殺生」の【慈悲の心】を押しつける事もまた危険に感じます。
この問題提起に【キリスト精神】で真正面から応えてくれた有識者を私は知りません。
私ならば「何故人を殺してはいけないのか?」という若者の質問に対して応えるならば、
【この世】に生きている私たち全員が既に何らかの形で「人殺し」に関わっている事を
先ずは自覚しようではないかと語りかけるでしょう。
「いじめ」など精神的抹殺や虐待による自由を奪うことも、無関心ゆえの見殺しもまた
自分が手を下さなくても多くの「殺人」に関与していることを理解するべきでしょう。
さらに【聖書】では「愛さない」ことで既に「人殺し」に通じると明確に定めています。

●あなた方が知っているとおり、兄弟を憎む者はすべて人殺しであり、人殺しは全て
 そのうちに永遠の命を留めてはいない(ヨハネ第1書3-15)

ご存知のように「汝、殺すなかれ」とは【神の愛】から託された【十戒】にあります。
「人を殺す」という問題を社会的秩序の中で考えるだけでなく【神の正義】として
十戒】の観点からも、考えてみることを質問した若者や皆さんにもお奨めします。
「汝、殺すなかれ」には単なる【人命】だけを禁じているのではなくて、精神的に
「取り返しのつかない」修復困難な断絶をも含み意味すると理解するべきでしょう。
「汝、盗むな」「汝、姦淫するな」も同様に単なる物質的・肉体的な範疇を超えて
「殺すな!盗むな!姦淫するな!」は個別にとらえるだけでなく【十戒】一体的に
考えてみるべきでしょう。
競争して誰かのチャンスを奪うことも、神以外の人間や権威に少しでも頼ることも、
全ては【十戒】に反する破戒に通じることになります。想像し心に抱く事だけでも
十戒】に反する【罪】に定められることになります。
当然ながら私自身は【破戒者】の先頭に立つ【罪人】であるわけですが、果たして
【この世】で生き続けよう!と思った人間で【十戒】を完全遵守できる【義人】は
存在できるのでしょうか?

●義人なし、一人だになし(ロマ書3-10)

そうです!【神の正義】として定められた【十戒】は遵守は不可能であるのです!
十戒】は人間の目指す直接的な【人生目的】というよりも自己の無力を自覚し
【神の愛】に対して忘恩・傲慢・高慢な私自身を戒める【手段】といえるでしょう。

●律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない
 (ロマ書4‐15)
●律法は人を救えない。しかし、人を救う準備をする(内村鑑三

十戒】は遵守困難を自覚させられて、無力なユダヤ人は【救世主】を待ち望み
【神の愛】に聞き届けられて、私たち人類を救済する【神の愛】の【主イエス】が
与えられ、今の我々のために【先回りの愛】として【十字架の贖罪】を受けられて
【アダムの原罪】の束縛から解放され【神の愛】で救われることができるのです!
ヨハネ伝3-16)(ヘブル書12‐12)(ロマ書3-21~23)

●キリストは私たちの平和であって2つのものを一つにして敵意という隔ての中垣を
 取り除き、ご自分の肉によって数々の規定から成立する規律と戒律ずくめの律法を
 廃棄したのである。それは、彼にあって二つのものを一人の新しい人に造りかえて
 平和を来らせ、十字架によって二つのものを一つの体として神と和解させ、敵意を
 十字架にかけて滅ぼしてしまったのである(エペソ書2-14~16)

【キリスト精神】にある者は「何故人を殺してはいけないのか?」の【古き掟】に
とらわれ悩み怒り嘆くことから【主イエス・真理】により自由解放されたのです!
(コリント後書3‐17)
●真理はあなた方を自由にさせる(ヨハネ伝8‐32)

【神の愛】で克服して【新しい掟】「多くの人々を助け救うには何ができるか?」を
【人生目標】として前進するように共に励まし合い前進しようではありませんか!
【律法】の奴隷から釈放されて新たに生まれ変わった【自由人】として生き生きと
【主イエス】と共に【神の愛=隣人愛】に生きましょう!(詩篇51‐10)
(ヨハネ伝3‐3)(ヨハネ伝13-34)(ルカ伝4-18)

●私たちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、
 新しい霊によって仕えているのである(ロマ書7‐6)

私たちは「殺し・盗み・姦淫」を心配するよりも、【主イエス】と共に前進して
【神の愛=隣人愛】の実現を目指す【人生目標】を抱く事で万事が善しです!
(マタイ伝22‐37~40、マルコ伝12‐29‐31、ルカ伝10‐26~28) (申命記6‐5)

●愛は隣人を害する事はない。愛は律法を全(マットウ)する(ロマ書13‐10)
●信仰のゆえに、私たちは律法を無効にするのであるか、断じてそうではない。
 かえって、それによって律法を確立させるのである(ロマ書3-31)
●キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終り(目標)と
 なられたのである(ロマ書10‐4) ★★【その2】につづく★★