◇◇【神の愛】は【善】なり!【善】は勝利する!(その1)◇◇
【2005年12月29日に作成した<第394回>より】
●You are good and do good!
あなたは善なる方、いつくしみ深くあられ、すべてを善とする方で慈しみを施されます
(詩篇119-68)
●神は善なり(マタイ伝19-16)⇔神を知るは善人なり(内村鑑三)
●イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はお一人である。
もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」(マタイ伝19-17)
●【真の善人】(内村鑑三)
自己を害(ソコナ)わずして他を利し,
己れを潔くすると同時に公衆の幸福と社会の清浄とをはかり
古人を学ぶと同時に自己の特性を開発する
理想的の善人たらんとする道とは;
◆己れの利を求めざる人(コリント前書13-5)
◆己れの事のみを顧みず人の事を顧みる人(ピリピ書2-4)
◆天より賜(タマ)いし所の賜物をゆるがせにせざる人(テモテ前書4-14)
今日現在、様々な【苦難】にあっても、【再起・復活】のために、【神の愛】が慰め励ましてくれます!
明日こそ、【ビジョン:理想・夢・志】の実現を目指すために【神の愛】が勇気と希望を与えてくれます!
皆様の心に【神の愛】が宿り、存在を実感できますように【主イエス】の御名によって祈ります!アーメン
今年一年も様々な悲惨な出来事が起こり、怒りや悲しみのあまりに、時には【神の愛】の不在を思わせるようなことも
個人的出来事にも社会的出来事にも感じさせられました。皆さんはどうでしたか?
「【神の愛】があるなら、どうしてこんなことが起こるのか?!【神の愛】が何故このようなことを許されるのか?!」
私たちは結論や成果を急ぎ過ぎます。目先の身近な知識と経験だけで、すぐに原因・理由を探そうとします。
【善き羊飼い・救い主】である【神の愛・主イエス】から観るならば、まさに私たち人類は【迷える子羊】なのでしょう。
以前にも紹介しましたが、【羊】の大きな特性は三つあるそうです。
<1>耳が遠い
<2>目が悪く近眼
<3>帰巣本能がない
「耳が悪い」とうことは、つまり、「神の声=【神の愛】」に聞き従わずに、自分勝手に動き回り、挙句の果てには
迷子になってしまうことになります。
「近眼」であることは「目先の現実:この世の利害・損得」にばかり忙しく心が奪われて、崇高な理想や将来展望や
遠大で永遠なる【天国再建】計画や【来世への希望】などを抱きにくいことを示しているといえるでしょう。
「帰巣本能がない」という事は、我々が安全な【エデンの園】から追放され、苛酷な「荒れ野(現実)」をさまよう中で、
自力では安全な【エデンの園】に帰る事ができず、【善き羊飼い・主イエス】に見つけ出され、導かれてこそ、ようやく
身も心も【天国・神の国】に立ち帰ることができるという示しなのでしょう。
●私は善い羊飼いである。善い羊飼いは、羊のために命を捨てる(ヨハネ伝10-11)
●私は羊の門である。私を通って入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう(ヨハネ伝10‐9)
身近な心配に心奪われている【迷える子羊】の私たちが今日現在には理解に苦しむ出来事であっても、必ずや
【神の愛=主イエス】の【愛の摂理】が働いて、不思議に満ちた【神の愛の奇蹟】によって【最善】に導かれることを
信じましょう!
●私の思いは、あなた方の思いと異なり
私の道は、あなた方の道と異なる
主の御告げ
「天が地よりも高いように
私の道は、あなた方の道よりも高い
私の思いは、あなた方の思いよりも高い」(イザヤ書55-8~9)
●天の下では、何事にも定まった時期あり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。
殺すのに時があり、癒すのに時がある。
崩すのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、微笑むのに時がある。
嘆くのに時があり、躍るのに時がある。(伝道の書3-1~5)
●神のなされることは全てその時にかなって美しい(伝道の書3-11)
●我(主)が為すことを汝今は知らず、後に悟るべし(ヨハネ伝13-7)
私たちが【荒れ野<現実>】の過酷な【闇:悪・不義・不完全】にばかり圧倒され戸惑い、【光:善・正義・完全性】である
【神の愛】の存在を見失って喜ぶのは【この世の君・悪魔】だけです。しかし、そんな【最悪】であっても【最善】があることを
私たちは【神の愛】によって発見できることを知っています!【この世の君・悪魔】の誘惑も【神の愛】を知る【チャンス】です!
●悪い事の中にもなにほどかの善の魂がまじっている。人が注意ぶかくそれをさがし出すならば(シェークスピア)
●神(愛)を信ぜよ、さらば神は汝の必要に応じて全ての善き物をもって汝を恵まん(内村鑑三)
●私たちは善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると時が来れば刈取るようになる(ガラテヤ書6‐9)
●希望は時々刻々この世に臨みつつあり、腐敗の累積はあえて恐るるに足らざるなり(内村鑑三)
●神への信頼を失わずに、その試練を切り抜けるならば、他のいかなる道でも達せられないほど、神に近づく事ができる
(ヒルティ)
●すべて彼(主イエス)を信じる者は失望に終わることがない(ロマ書10―11)
【闇の勢力】が強い時代だからこそ、私たちは【光:善・正義・完全性】を捜し求めて【神の愛】に喜んでもらいましょう!
●彼らの目を開き、彼らを闇から光へ、悪魔の支配から神のもとへ帰らせ、また、彼らが罪の赦しを得、私(主)を信じる
信仰によって聖別された人々に加わるためである(使徒行伝26‐18)
●善を信じなければならない。善なるものがこの世には存在すること、そして、それは悪に対して勝利をおさめる力を
もつことを信じなければならない(ヒルティ)
●善の勝利についての絶望は、常に個人的勇気の欠乏である(ヒルティ)
世間が何と言おうとも、私たち個人個人が、自分から好き勝手に【神の愛=主イエス】から遠ざかることさえしなければ、
【神の愛=主イエス】の側からは、いつどんな時でも私たちを見捨てることは絶対にない!ということを堅く信じましょう!
日頃からどんなに覚悟していても、時には、「ああ、【神の愛】でも、こんな(間違った)私だから助けてくれないんだ・・・」と
思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、私の実体験では、どんなに私自身が卑しく背徳・不義の悪党であろうとも、
たとえ私の方が身勝手に【神の愛】を恨めしく思っても、いつでも【神の愛】は私の【最善】のために導いていてくれたことを
自信を持って公言します!優しくて頼もしい慈愛に満ちた【神の愛】に感謝します!ハレルヤ!栄光を主に帰します!
●女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を憐れまないようなことがあろうか。たとい彼等が忘れるようなことがあっても、
私(主)はあなたを忘れることはない(イザヤ書49‐15)
●私に目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している 「Very Important Person in God' Eye」
(イザヤ書43‐4:V.I.P.の語源)
●これらの小さい者の一人が滅びることは、天に在ますあなた方の父の御心ではない(マタイ伝18‐14)
たとえ私自身の自己都合で自己責任の過失であろうとも、その結果で【この世】の【最悪・どん底】に陥ってしまっとしても
そして世間や家族から孤立無援となろうとも【神の愛=主イエス】だけは見捨てることなく【最善】に立ち帰る【チャンス】を
いつでも提供してくれるのです!
●私が暁(アカツキ)の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます(詩篇139-9~10)
●我は逃れんと欲して、我が神の恩恵の手より逃れることはできない。
神は奈落の底にまで、神の手を拡げて我を支え我を救い給う(内村鑑三:詩篇139‐7~8)
●私はあなた(主)の御霊から離れてどこへ行けましょう。
私はあなたの御霊を離れてどこへ逃れましょう
たとい、私が天に昇っても、そこにあなたはおられ
私が黄泉(ヨミ)に床を設けても、そこにあなたはおられます(詩篇139‐7~8)
●私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、
力ある者も、高い者も深い者も、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける
神の愛から私たちを引き離すことはできないのである (ロマ書8‐38~39)
【十字架のイエス】の傍らで共に処刑された名も無き【悪人】であっても、人生の最後の最後に【パラダイス】に行けた事は
私たちもまた、いつでも【チャンス】がある証明ではありませんか!
●そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた(ルカ伝23-42~43)
●The Best is yet to come!<最善の時はこれからだ!>(ロングフェロー)
●【最善の最後(内村鑑三)】
信者の生涯は始めは悪くして、終わりは善くある。
終わりに近づくほど、ますます善くある。
最後(ラスト)が最善(ベスト)である。
★★【その2】につづく★★