【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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【神愛福音道】【聖書価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】 【<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>創世道】

【苦難】の中で出会おう!【1】

◇◇【苦難】の中で【神の愛=主イエス】に出会おう!(その1)◇◇
【2005年7月2日に作成した<第379回>より】

●苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救って下さった(詩篇107-6、13、19)
●あらゆる苦難から私の命を 救われた主は生きておられる(サムエル後書4-9)
●苦難の中から主を呼び求め、私の神を呼び求めると、その声は神殿に響き、叫びは御耳に届く
 (サムエル後書22-7、詩篇18-7)
●この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった(詩篇34-7、18) 

個人の生涯でも、家族・民族・国家の歴史においても、計画・都合に反し、思い通りに行かない【苦難】はつきものです。
私たちに自由・独立・幸福・平和・繁栄に導き守り育てているのは【神の愛=天の父】である事を改めて自覚させてくれる【試練・訓練=愛のむち】であるのが【苦難】である事を私たちは知るべきでしょう。

【苦難】は個人各自、民族によって異なるのは、それが各自に存在する【闇・悪・不完全】から生じる【弱点・弱味】であり、【神の愛】に背を向け忘恩で、生涯の【最大の宿敵】である【自己愛・偶像崇拝】との対決・葛藤だからだと思います。

そのため【神の愛】は各自の【罪:闇・悪・不完全】を放置させるのでなく、【罪:闇・悪・不完全】を善循環させることによってこの世に【光・善・完全性】に導くために、【苦難】に出会わせて克服させるように、私たちを訓練しているのだと実感します。

●肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが魂の父は、私たちの益のために、神の聖(きよ)さに預からせるためにそうされるのである (ヘブル書12‐10)
●全ての訓練は、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし、後になれば、それによって鍛えられる者に平安な義の実を結ばせるようになる(ヘブル書12‐11)
●我が子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主の叱責をいとうな父がかわいがる子をしかるように
 主は愛する者を戒める(箴言3‐11~12、ヘブル書12‐5~6)
●あなた方は訓練として耐え忍びなさい。神はあなた方を、子として扱っておられるのである。
 いったい父に訓練されない子があろうか(ヘブル書12‐7)
●神への信頼を失わずに、その試練を切り抜けるならば、他のいかなる道でも達せられないほど、神に近づく事ができる(ヒルティ)
●たとえ困難がどんなであっても、我々は神の力によって、 これに対抗することはできるであろう。
 私は神のおかげで困難になれてきた。神に信頼してまだ裏切られたことがない(クロムウエル)

たとえ世間的に私たちが【人の道】にはずれた背徳・不義でも、私の【弱味・弱点】をくすぐられる【誘惑・快楽・肉欲】に負けても、逆に世間的成功によって高慢・ねたみ・優越感・劣等感を満足させる有頂天にあっても、あるいは人生の【どん底】に落込んで【自己嫌悪・自己不信・罪悪感】に陥っていようとも、一方的に不条理・不当・不正な扱いで孤立・迫害に耐え忍ぶ状況でも、あらゆる【苦難】の背後には常に【神の愛の救済】を信じて、自らも進んで【神の愛】に通じる【突破口】を捜し求めましょう!

●死に勝つに生をもってし、闇を逐うに光をもってし、怨を滅するに愛をもってす、これ神の救済法なり (内村鑑三)
●主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望め(詩篇27-14)

【神の愛】だけは、私たちが義人だから善い子だから助け導いてくれるのではなく、私のような薄汚い罪人でも、いつでも何度でも【ビジョン:理想・夢・志】に向かって生きよう!と心から願望するなら、世間的に不可能に思えても、私たちの叫びは聞き届けられ再起・再出発できるようにと【チャンス神の愛の奇蹟】を用意していてくれることを信じましょう!

●あなたは彼らを敵の手に渡し、彼らを苦しめられた。彼らが苦難の中から叫び声をあげると、あなたは天にあって、それを聞き、豊かな憐れみをもって、次々と救い手を送り苦しめる者の手から救い出してくださった(ネヘミヤ記9-27)
●苦難の襲うとき私が呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう(詩篇86-7)
●彼が私を呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう(91-15)
●汝等、立ち帰りて静かにすれば救いを得、穏やかに依り頼まば力を得べし(イザヤ書30-15:ルター特愛の聖句)
●恐れるな、私はあなたとともにいる。たじろぐな、私があなたの神だから
 私はあなたを強め、あなたを助け、私の義の右手であなたを守る(イザヤ書41-10)

つまり、思い通りに行かず、自分が情けなくて、失意・挫折にある【苦難】ほどに、私たちは【神の愛】を身近に感じられるのです!
【天国の福音(山上の垂訓):マタイ伝5-2~12、ルカ伝6-20~23)にある【主イエス】自身が教えてくれた【心に貧しき者】とは世間で通用するような叡智・能力も無く、徳も無いことを自覚する【惨めな者】である私自身も含まれていると信じます!

自分では解決できずに、世間・家族には迷惑をかけて、人生最悪の【泥まみれ】であろうtも、【ビジョン:理想・夢・志】さえ求めれば、こんな私でも【神の愛】は決して見捨てるようなことはありません!ハレルヤ!主に栄光を帰します!

●神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けて下さる(詩篇46-2) 
●それから、私を呼ぶがよい。苦難の日、私はお前を救おう。そのことによって、お前は私の栄光を輝かすであろう(詩篇50-15)
●私は御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたは私の砦の塔、苦難 の日の逃れ場(詩篇59-17)
●私は思う。今この時の苦しみは、やがて私たちに現されようとする栄光に比べると言うに足りない (ロマ書8‐18)
●愛する兄弟たちよ、確(カタ)くして動かされず、常に励みて全力を注いで主の事(ワザ)に務めよ。主にあってあなた方の労苦が無駄になる事はない(コリント前書15―58)
●命は恩寵のうちにある、夕暮れに涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある(詩篇30‐5)

日本は世界で屈指の「自殺」大国であり、先進国では一番「自殺」が多いと言われています。「自殺」はいかなる宗教教義でも禁じられていて、当然ながらキリスト教会においても完全否定しています。

何故なら、【神の愛:天の父・主イエス】は、私たちが誰一人も【神の愛】を知らないままに死に滅びることは望んでいないからです。

●これらの小さい者の一人が滅びることは、天に在ますあなた方の父の御心ではない(マタイ伝18‐14)
●神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ伝3-16)
●一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか(ヨハネ伝11-50)
● ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです(ペテロ後書3-9)

この世に存在する私たち被造物に対する【神の愛】は無償の一方的な【至上の愛】であり、私たちの知性で理解し想像するような低レベルの【人間愛】をはるかに超えていることは、【天然=第二の聖書】の【摂理=神の愛】を観察すれば一目瞭然です!

●女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を憐れまないようなことがあろうか。たとい彼等が忘れるようなことがあっても、私(主)はあなたを忘れることはない(イザヤ書49‐15)
●私に目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している 「Very Important Person in God' Eye」(イザヤ書43‐4:V.I.P.の語源)
●二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている(マタイ伝10-29~31)
●五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。 それどころか、あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている(ルカ伝12-6~7)

そこで、頭脳明晰な理論家ならば反論するはずです。「それでは何故、多くの自殺者を【神の愛】は見捨てて助けられないのか?」
「かわいそうな、腹立たしい、不条理な、病死、事故死、他殺、虐待死が増え続けているのは何故か?」と考えるかもしれません。

【聖書】の記述を表面的に解読するならば。「自殺者は地獄の滅びの世界に行ってしまった。」と即答するのではないでしょうか。
多くの宗教においても、「自殺」は決して自由も幸福も平安も与えられず、苦しみのある地獄行きだと決め付けていると思います。
唯物論者や無神論者ならば、単純に考えて、「死んだら誰でも何も無くて、それでおしまい!」と結論付けるかもしれません。

「何故、自殺は実現するのか?」という疑問に対する答えについて、今日現在の段階では、私は次のように結論付けます。

「自殺」は過酷な【苦難】に出会った時に思いつく【最悪な結論】ですが、私自身も何度でも【誘惑】にかられたことがあります。
「家族・世間に迷惑をかけるなら死んじまえ!」自暴自棄になったり、「死んで本心を理解してもらおう」自己訴求・弁明など私自身の体験でも、「自殺」の理由は、そのときに応じてまちまちです。

それでは、私は何故、今生き延びているのでしょうか?私には、この世で為すべき【ミッション:使命・天職】があるからです!
たとえ家族・世間に迷惑をかけようとも、無理解で孤立無援であろうとも、【神の愛】が私の【立場】を守ってくれたからです!

●人はその職を終了(オワ)るまでは不滅なるがごとし(リビングストーン)
●我が事業の成るまでは我が死なざること、そのことは確実である(内村鑑三

意気地なしで臆病な私が「自殺」に引きづられても、そんな最悪の真っ暗闇の<どん底>にいた私の前にも、驚くべき恵みの【神の愛の奇蹟】の【光】に救われたことを、私はこの身をもって、証言します!ハレルヤ!栄光を主に帰します!

●暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光を見た。死の陰の地に住んでいた人々の上に光が輝いた(イザヤ書9-2)
●主よ、あなたは私の灯りを輝かし、神よ、あなたは私の闇を照らしてくださる(イザヤ書42-16)
●暗闇と死の陰に座している者たちを光で照らし、我らの歩みを平和の道に導く(ルカ伝1-79)

★★【その2につづく★★