【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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【神愛福音道】【聖書価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】 【<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>創世道】

【聖霊】の≪とりなし≫!【1】

◇◇【聖霊・御霊】よる【とりなし・祈り】に感謝!(その1)◇◇
【2004年11月9日<第349回>に加筆】 

●万の受造物(被造物すべて)は今に至るまで、常に共にうめき共に労苦し、生みの苦しみにあることを
私たちは知っている(ロマ書8-22)
●それだけではなく、御霊の初穂(最初の実)を持っている私たち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を
 授けられること、すなわち、身体のあがなわれることを待ち望んでいる(ロマ書8-23)
●御霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊自ら
 言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私たちのためにとりなし祈ってくださる(ロマ書8-26)

以前も紹介したこがありますが、ある高名な住職によれば、本来の「頑張る」とは仏教や儒教の思想からみるならば、
自我を譲らず主張する「我を張る」から由来する望ましくない意味を現わす言葉だそうです。

同様に、「我慢する」という言葉も他を軽んじて我を偉く思う傲慢を意味する望ましくない態度だそうです。

にもかかわらず、私たちは災害被害にあった人々や病苦に悩む人を励まそうとしての「善かれ」の気持ちから、
「がんばって!」と語りかけてしまいがちです。何か目標に向かって前進しようとする時、耐え忍ぶ必要のときには、
「我慢!我慢!」と慰めがちではないでしょうか。

一方で、米国では「God bless you!(神のご加護がありますように)」と励ましたり、慰めたりする光景がよく見られます。
その背景には【キリスト精神】では、【神の愛】に通じる【主イエス=御霊・聖霊】の【とりなし】があるからだと私は理解します。

【神の愛】である【主イエス】は常に【聖霊・御霊】を通じて私たち一人ひとりと【いつも一緒】である事を私たちは知っています。

●【アロス・パラ・クレイトス】
 ★アロス  =(主イエスと)別で全く同質な
 ★パラ   =かたわらにいる
 ★クレイトス=助言者、慰め主、支援者、激励者、とりなし、弁護者
●私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別の助け主を送って、いつまでもあなた方と共におらせて下さるであろう
  (ヨハネ伝14‐16)
●それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。
  あなた方はそれを知っている。何故なら、それは あなた方と共におり、また、あなた方の内にいるからである
  (ヨハネ伝14‐17)
●インヌマエル:神われらと共にいます (マタイ伝1‐23、イザヤ7‐14、8‐8)
●見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる <Always,with you> (マタイ伝28‐20)

【余りあるほどの驚くべき恵み・アメージング・グレイス】なる【神の愛】は公平であり、常に【先回りの愛】となって
現在の境遇に一切関係なく、異教徒だろうが偶像崇拝だろうが、誰にとっても【助け主・救世主】として働いて
私たちをこよなく愛されて一人も滅ぼすことのないように見守っていることを信じましょう!

●神は人を分け隔てはしない(ロマ書2-11)
●神はその独り子を賜うほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで
 永遠の命を得るためである(ヨハネ伝3-16)
●律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。しかし、今や神の義が律法とは別に
 しかも律法と預言者とによって証しされて現われた。
 それはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。
 そこには何らの差別もない(ロマ書3-21~23)
●私は失われたものを捜し、迷い出た者を連れ出し、傷ついた者を包み、病気の者を
 力づける。私は肥えたと強い者を滅ぼす。私は正しい裁きを持って彼等を養う(エゼキエル書34‐16)
●女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を憐れまないようなことがあろうか。
 たとい彼等が忘れるようなことがあっても、私(主)はあなたを忘れることはない(イザヤ書49‐15)
●私に目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している〔Very Important Person in God' Eye〕
 (V..I..P..の語源:イザヤ書43‐4)
●これらの小さい者の一人が滅びることは、天に在ますあなた方の父の御心ではない(マタイ伝18‐14)

たとえ【聖書】を知らなくても、特定のキリスト教会に属さずとも、キリスト教制度に無縁・無関係であっても、
私たちが【真理=神の愛】を求める心を失わせないように、【ビジョン:理想・夢・志】を抱かせる心を守り続け
私たち全員に、この世の生涯で【神の愛】に立ち帰られる【チャンス】が何度でも与えられていると私は信じます。

世界のどこを歩いていても、本屋には【聖書〕が、町には教会が身近に存在し【キリスト精神】に根ざした様々な
≪果実:文化・制度・思想・・・≫が私たちを招いています!私自身も招かれた一人です!ハレルヤ!感謝します!

●私(主)は私を求めない者に見出させ、私を尋ねない者に、自分を現した(イザヤ書65‐1、ロマ書10‐20)
●多くの先な者は後に、後なる者は先になるべし(マタイ伝19-30、20‐16、マルコ伝10‐31)
●真理は教会より大なり(内村鑑三)
●神は何らかの教会制度や、さらにある一定の学問の中に限られてはいない。そのようなものがなくとも、
 神は自らを知らしめ給う(ヒルティ)
●教理を知らないでもクリスチャンである者が少なくない。キリスト教は証明せらるべき教義ではなくて、
 生活さるべき一つの生命である(ヘンリー・ドラモンド)

【聖書:イエスの生涯と教え】が私たちにとって【福音=善き知らせ】である理由は、私たちが知ろうが知るまいが
受け入れようが拒絶して背を向けようとも、【神の愛】は全ての上に、いつも働いていて決して見捨てることもなく、
一方的に【愛の手】を差し伸べ続けてくれているという【素晴らしき恵み】の事実だからです。

●我は逃れんと欲して、我が神の恩恵の手より逃れることはできない。
 神は奈落の底にまで、神の手を拡げて我を支え我を救い給う(内村鑑三詩篇139‐7~8)
●私はあなた(主)の御霊から離れてどこへ行けましょう。
 私はあなたの御霊を離れてどこへ逃れましょう
 たとい、私が天に昇っても、そこにあなたはおられ
 私が黄泉(ヨミ)に床を設けても、そこにあなたはおられます(詩篇139‐7~8)
●私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、
 力ある者も、高い者も深い者も、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける
 神の愛から私たちを引き離すことはできないのである (ロマ書8‐38~39)

情報化社会の現代に生きる私たちは日本や世界で起きている様々な絶望的な光景を毎日見せつけられます。
動物が植物が苦しみもがき、自然の生命が「声なき悲鳴」を上げ嘆くのを目撃し、世界各地で多発する災害や
紛争や貧困飢餓に悲嘆し途方に暮れている人々の姿をみせつけられます。

そこには、まるで【神の愛】の存在を感じさせないような殺伐とした光景です。しかし、どんな絶望的光景でも
常に《復活・再起》への【希望の光】が注がれてきたことは過去の悲惨な歴史的事実にも証明されています。
どんなに過酷悲惨な【不完全:悪・闇】に思われる出来事であっても、背後に【完全性:善・光】の【神の愛】を
見つけだしましょう! 

●悪い事の中にもなにほどかの善の魂がまじっている。人が注意ぶかくそれをさがし出すならば(シェークスピア
●善の勝利についての絶望は常に個人的勇気の欠乏である(ヒルティ)
●事物の光明的半面に着眼する者、これ信者なり。
 暗黒的半面に注目する者、これ不信者なり。
 信者は  常に健康を祝し、成功を讃え、 聖徳をよろこぶ
 不信者は 常に疾病を語り、失敗をなげき、悪徳・罪悪を憤る(内村鑑三
●私(主)がしていることは、今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるであろう(ヨハネ伝13‐7)
●神は善なり(マタイ伝19-16)⇔神を知るは善人なり(内村鑑三
●善人とは神と共に歩む者(創世記5-22)

ユダヤ民族撲滅を試みた「ホロ・コースト」では過酷な収容所の中でも、イスラエル再建の原動力が養われました。
原爆被災地の広島・長崎でも奇跡的な再建が実現できたのも、全ては【神の愛】が見捨てなかった証明です!

●神の恵みと助けとが示されているのは、とくに困難な時期に、いつも我々の暗い運命のどこかある一点が
 明るくされることによってである(ヒルティ)
●いたずらにあなたを苦しめるために
 苦難を与えられたのではない。
 信じなさい、まことの生命は
 悲しみの日に植えられていることを(ヒルティ)

私たちの【神の愛】への信仰を見失いやすい最大原因は【来世・永遠の命】の存在を認められない理性だと思います。
この世だけが勝負の場であり、この世で生存し続けることが幸福であり、無残無念な《死・結末》を不幸と考える限り、
【来世・天国】を理解しようとしない限り、この世の悲惨さに【神の愛】を見出したり感じることは不可能だと思います。
不完全と思われる【現世】を補って余りある【来世・天国】があるから【神の愛】の【完全性】があると私は確信します!

●我らの国籍は天に在り(ピリピ書3‐20)
●聖書の道徳は天国の法律である。ゆえにこれは天国の希望を抱かない者の
 守る事のできるものではない(内村鑑三
●これらの人はみな、信仰を抱いて死んだ。まだ約束のものを受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、
 そして、地上では旅人であり寄留者であることを自ら言い表した(ヘブル書11‐13)
●私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる(ヨハネ書11‐25)

【来世・天国・永遠の命】を受入れず【聖書】を読めば、単なる道徳論で愚かで《負け犬の遠吠え》」に思われることも、
【聖書】に【来世信仰】が加わった【キリスト精神】であるならば、常に前向き・肯定的・積極的・実践的・挑戦的なる
【神の愛の力】である【バイタリティ:生活力=生命力+活力】と【ダイナミック・パワー:信じる力・望む力・愛する力】が
常に与えられることを実感してみてください!

●十字架の言葉は滅び行く者には愚かであるが、救いに預かる私たちには神の力である(コリント前書1-18)

【神の愛】は私たちが正しく祈れなくとも、絶望からの《声にならない》悲嘆・感動をも聞き届けてくれる事を信じましょう!
【神の愛】の素晴らしさはこの点にあります!万物の私たちの苦難を、【心の内】をすべてご存知であることを信じましょう!

巻頭のロマ書(8-22.23.26)にあるように、声にならない説明しがたい《うめき》はこの世の至る所に存在しています。

●《うめき》:言いがたき感情の発露「ああ!」「おお!」間投詞
 死の場合、生の場合、その他一大事の場合、大感情にうたれし、大思想の湧起せし場合、
 大希望に心躍る場合、人の外に発するものの中、最も深きものは雄弁ではない「うめき」である(内村鑑三

★★【その2】につづく★★