◇◇ 【キリスト精神】の≪善人≫とは(その1) ◇◇
【2001年5月5日に作成した<第121回>に加筆】
●神は善なり(マタイ伝19-16)⇔神を知るは善人なり(内村鑑三)
●善人とは神と共に歩む者(創世記5-22)
●【真の善人】(内村鑑三)
自己を害(ソコナ)わずして他を利し,
己れを潔くすると同時に公衆の幸福と社会の清浄とをはかり
古人を学ぶと同時に自己の特性を開発する
理想的の善人たらんとする道とは;
◆己れの利を求めざる人(コリント前書13-5)
◆己れの事のみを顧みず人の事を顧みる人(ピリピ書2-4)
◆天より賜(タマ)いし所の賜物をゆるがせにせざる人(テモテ前書4-14)
神に大事にされ大切なる皆さんこんにちは、ご愛読に感謝します。
2001年5月3日憲法記念日の特別企画としてNHKで教育改革や教育基本法の改正などを
テーマにした番組が放映されていました。
パネリストは新文部科学技術大臣や元検事でさわやか福祉財団の堀田さんや日本IBM社の代表や
大学教授や女性ジャーナリストなど各分野からの出席です。
そこで議論された最大テーマはこれからの人間教育はどうあるべきかという究極の問題と言えるでしょう。
例えば初等義務教育のゆとり学習政策が果たして意義あるか、現状の受験システムにこそ問題があるとか、大学教育こそ改善すべきとか、今後の企業が求める資質教育をすべきなど様々な意見が出て、当然ながら結論までには至りませんでした。そして、今国会でも議論されている教育基本法の見直し改正についてどうすべきかと言う議論で終りました。
「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、
普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない」
(教育基本法の前文から抜粋)
60年前に占領政策の下に創られた条文であっても、ここに明記される教育理想には世界の平和への希望と【隣人愛】と【自主独立】への確固たる決意が感じられる素晴らしさに私自身は感動しますが、皆さんは如何思うでしょうか?
結局は≪善悪の判断≫をどのように教育するべきかが最も大切と結論づけた新文部大臣の発言が番組の中で最も印象深い発言でありました。
儒教的道徳では次のような戒めがあります。
●自分がされたくない事は人にもするな
これは、自分が他人にされて迷惑と感じることは、なるべく自分も他人や世間にもしないように面倒をなるべくかけない事を善しとする考えです。この否定《Don’t》と否定《Don’t》でつながった戒めは消極的で保守的な行動規範ともいえるでしょう。
一方で、【キリスト精神】の考える善行とは次の【黄金律(ゴールデン・ルール)】を実践することを指します。
●全て人にしてもらいたいと欲することは(主イエスが汝等《人》に為した如くに)汝等もまた人にその如くせよ(マタイ伝7-12)
●すべて自分がされたいと欲する事を、神が為されるように、汝の隣に施せ(黄金律:ルカ6-31、マタイ7-12)
この場合は、積極的で革新的な行動規範と言えます。誰もやらないならば、私から率先して行おうとする意欲を駆り立てさせます。
ここで重要な事は、自分が「人にしてもらいたい!」と思う事なら何でも自分勝手にしても良いという御都合主義・利己主義とは違うという事です。
あくまでも、「【主イエス】ならばどうするだろうか?」と先ずは考えてみることが必要だと思います。
●W.W.J.D.(What Would Jesus Do?)
そこで《つまづき》がちなのは、私たちは到底【神の子イエス】と同じ行為などできる《善人・聖人】ではないと思うことです。
そうです!まさに私たちの多くは、特に私自身などは【エゴ:自己愛】が強くて、自分勝手な《極悪人》です。
それでは、何故このような無理・難題な教えが一番大切な【黄金律】としてあるのでしょうか?
ユダヤ教から継承される【十戒】はキリスト教においても守るべき戒律です。そこには殺すな、、姦淫するな、、盗むな、嘘をつくな、むさぼるな、など多くの戒めが存在しますが、それよりも最優先した戒律として、それら全て充たす戒律として【黄金律】が存在するのです。
●【最も重要な掟】(内村鑑三)
★心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくし、主なるあなたの神を愛せよ。
★自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。(マタイ伝22‐37~39、マルコ伝12‐30~31、ルカ伝10~27、申命記6‐5)
●イエスは言われた、
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なるあなたの神を愛せよ』
これが一番大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である。
『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』
これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているこの二つの戒めに優る掟はない
(マタイ伝22‐37~40、マルコ伝12‐29‐31、ルカ伝10‐26~28)
私が考えるには、自分が行えるかどうかではなくて、実際に目の前に【黄金律】を実践している【隣人】を見かけたら、彼等こそ【神の愛=主イエス】が正しいと認める【正義と愛の人】であるとして、彼等を見捨ててはならない、殺してはならない、だますな、裏切るな、うらやむな、という教えだと理解します。
思い出して下さい。この世で最も【真正の義人】であり、【慈悲ある聖愛の人】であった、【主イエス】自身でさえも、この世では《極悪人》として処刑してしまったではありませんか。
つまり、私たちはいつの時でもどんな状況にあっても、【神の愛=主イエス】のもとに≪正しく善である人や事柄≫を正当に見極められるようにしなければならず、そのためには、常に【聖書:イエスの生涯と教え】を心に留めて準備しておくことが肝要だと思います。
●あなた方はこの世に妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって神に喜ばれ、かつ全きことであるか、わきまえ知るべきである(ロマ書12-2)
【クリスチャン】自身が全てはじめから【真の善人】だと思うと失望してしまい、、挙句の果てに【キリストの教え】自体までもが、独善・偽善・高慢な無意味な存在とさえ思いこんで捨て去る事は人生にとっては≪最大の悲劇≫です。
【キリスト精神】における≪善行≫は先ずは、【隣人・社会】の中に【【神の愛=隣人愛】と共に歩む【善人】を見出して、彼等を助け救う事といえるでしょう。【神の愛=主イエス】を知れば、自分自身がその瞬間に、すぐに立派で高潔な≪善人・聖人≫になれるのではないからです。
自分自身も中途半端な人間なのに、この悪徳と不義と絶望に染まっている【隣人・社会】からできるだけ多くの人々や出来事を≪不完全:闇・悪徳・不義≫から≪光:善・完全性≫に救い出せる【福音伝道】の務めにつけるのは何と名誉あることでしょう。
●キリスト信者たる栄誉の一つは弱き取るに足らざるこの身をもってして、なお大望を抱いてその一部分を遂行しうるにあり(内村鑑三)
私たちは周囲や世間に一度でも≪悪・不義≫とレッテルをはられた人間・事柄に対して、あえて独りでも反論して善で正義である事を主張するには勇気と忍耐が必要です。
その時、【聖書:イエスの生涯と教え】が希望と慰め勇気と励ましとなる【ダイナミック・パワー:信じる力・望む力・愛する力】を無限に与えてくれ、さらに日々新たな【バイタリティ:生活力=生命力+活力】をも満たしてくれます!
【神の愛=主イエス】は最後の最後まで≪正義の側≫にある者を守り助けてくれるからです!
●正義を行う者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、
手を張ってワイロを取らない者、
耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者
目を閉じて悪い事を見ない者
このような人は高い所に住み、その砦では岩の上の要塞である
彼のパンは与えられ、その水は確保される(イザヤ書33-15)
★★【その2】につづく★★