【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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【神愛福音道】【聖書価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】 【<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>創世道】

【神助】に頼れば心配ご無用!

◇◇ 【神助】に頼るならば、一切の心配ご無用! ◇◇
【2001年7月20日に作成した<第163回>に加筆】
●我が扶助(タスケ)は天地を造り給える主より来る(詩篇121-2)

★聖書【ゲッセマネの祈り】に学ぶ
(マタイ伝26‐36~44、マルコ伝14‐32~42、ルカ伝22‐39~46)
◆「私は悲しみのあまり死ぬほどである」(マタイ伝26‐38、マルコ伝14‐34)
◆「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯を私から取りのけて
 過ぎ去らせて下さい。しかし、私の思いでなく、御心のままになさってください。
 (マタイ伝26-39、マルコ伝14‐36
◆イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたるように
 地に落ちた(ルカ伝22-44)

神に大事にされ大切なる皆さんこんにちは、ご愛読に感謝します。

私たちの人生は心配と不安だらけです。完全主義でマイナス思考ならばなおさらです。

ところで、【主イエス】ご自身は常に革新的で実践的な【フロンティア精神:★チャレンジ精神
★ポジティブ/プラス思考★オープン・マインド】に満ちた【自由・平等・寛容・博愛】そのものでした。

そんな【主イエス】ご自身でも、弟子との最後の晩餐を終えて、いよいよユダの裏切りによって、捕えられる直前に、とても悲しみと苦しみに陥ったことが、上述のように【聖書】には克明に記されています。

この記録こそが、私たちに大いなる慰めと励ましと勇気と希望とを与えていると私は感謝しています!

【主イエス】は弟子の前に、これから確実にご自身の身に起こる≪生涯最大の試練≫であり恥辱で悲嘆・苦痛の【十字架上の贖罪死】の体験を目前にして、血の汗がしたたる如く恐れと悲しみと苦しみもだえる、≪人間の姿≫を隠すことなく現して、人生のどん底では、ただ神への祈りを捧げ続ける事で耐え忍び困難を克服する【最善方法】を私たちに身をもって教示したのです。

実際に≪災難≫が起きる直前の【ゲッセマネの祈り】では、【主イエス】ご自身があれほどに恐れ悲嘆に暮れていたのに、現実に祭司長やローマの法官の前で辱められ拷問され大衆に愚弄され追放されて十字架にはりつけられてしまいますが、その時には、【主イエス】ご自身は、もはや何の迷いもなく堂々と、そして威厳に満ちた≪勝利者の姿≫でありました。

●すべての困難は、それがのちに現実となった時よりも、その前に想像された時の方が、よほど困難に思われる(ヒルティ)

私たちは生涯の様々な困難を現実に起きる前から想像して、とても不安になり心配します。
ある統計では、現実に起きるかもしれない【患難辛苦】について、起きる前から想像して心配・不安・恐怖することのうち、実際に現実になってしますのは全体の10パーセントもないという話まであります。

だからといって、私たちは、このような現実に起きる前の「取り越し苦労」による心配・不安・恐怖から逃れるのは困難です。

そこで、【主イエス】ご自身が人類全体のために、身をもって率先して実践して教示した方法こそが、【神様への祈り】です。
【患難辛苦】が現実に起こる前にこそ、【礼拝:祈りと感謝】を通じた【神助】を求めたのです!感謝します!

●起こるかもしれない不幸に対する心配は是非とも忍ばねばならない現実の不幸よりも一層ひどく人の力を消耗させる。実際の不幸は、しばしば外的な手段や努力によって打ち克つこともできるが、心配は神への強い信頼によってしか徹底的に打ち克つ事ができない(ヒルティ)
●やって見せ 言って聞かせて させて見て ほめてやらねば 人は動かぬ(山本五十六

私たちの多くは、【主イエス】の弟子たちが陥ったように、現実の困難が来る前には祈る事も神への助けを求める事もせず、ただ心配しておろおろするか、人や世間に頼るか、又は何も考えずに眠ってしまうかのいずれかで時を過ごしてしまうのではないでしょうか。

しかし、【主イエス】ご自身は孤独の絶望的な悲しみの中にあって、ただひたすらに、神に祈り信頼し【神助】を求めたのです。
このことは私たちが生涯における様々大小の【患難辛苦】を克服する時の≪最善・最強の教訓≫となるのではないでしょうか。

●お前を悩ますのは誘惑だ。またお前をひどく脅かすものは根もない恐怖心である(トマス・ア・ケンピス)
●お前の意図に反しても、それは全くもう駄目だというわけではない。目前の感じによって物事を判断するのは間違いである(トマス・ア・ケンピス)

先ずは、ただ独りでも直接に【神の愛=主イエス】に【礼拝:祈りと感謝】して≪神助≫を求める事です。そうすれば、自力や世間の叡智と力を結集しても到底解決不可能と想像される困難でも、【神愛の助け】さえあれば不可能などありません。
その証明を人類史上最悪な困難を克服された【主イエス】ご自身が身をもって見事に示されたのです。

【神助(内村鑑三)】
◆神を信ぜよ、さらば神は汝の必要に応じて、すべての善き物をもって汝を恵まん。
 ⇔ ■天来の思想 ■外来の友人 ■意(オモ)わざる汝に臨む全ての恩恵の手段(テダテ)
◆汝の目下の境遇をもって汝の力を量るなかれ、汝は信仰をもって神の力を汝の力となすを得べし
◆神の無限の力に頼りて、われらはわれらの信ずるがごとくにすべての事をなすを得るなり
●私を強くして下さる方によって、何事もすることができる(ピリピ書4-13)

【神の愛の奇蹟】は自ら起こすものだという人がいます。私は起きる前に【神の愛=主イエス】に祈って、神に助けを求めます。
その結果、誰にも気づかれずに過ぎ去っていれば、世間が驚くような目立った【神の愛の奇蹟】など必要はありません。

野球の内野守備での≪超ファイン・プレー≫とは観衆がみると自然に簡単に処理しているようにしか見えないそうです。
何故なら、打球が飛んで来るずっと前に予測しておいて、先にポジションを移動しているので、いつも身体の真ん中で捕球できるからだそうです。

一方で、高校野球の内野守備によく見られるような、打球に向かって右に左に飛びつくようにしてボールを捕えるのは、動きが派手でファイン・プレーのように観衆には見えます。しかし、プロの目から見れば、ファイン・プレーと言うよりも事前の判断予測のないままにボールをあわてて追いかけているにすぎないのだそうです。

人生もそのように、事前に≪神愛の助け≫を求めて【ゲッセマネの祈り】のように【神の愛=主イエス】に【礼拝:祈りと感謝】すれば、事前に心構えがしっかりされて、覚悟ができて、何も恐れず騒がず慌てる事も無く、多少は失敗や挫折があろうとも、自分らしい人生を堂々と満足して過ごせるはずです。【主イエス】ご自身が示されたように。

●祈りと思索とは決して対立するものではない。この二つともが、真理を完全に把握するのに必要なものである。思索は自ら真理を探求するために、そして祈りは神の啓示を預かる為に(ヒルティ)

そして、【神の愛=主イエス】への【礼拝:祈りと感謝】と【神助】を求めるということは、同時に現状の最悪な困難と思われることでも、それもまた間違い無く【試練:神の導き・神のはからい】であると受け入れ感謝できるようになることが大切です。

常に感謝して喜べる≪素直な心≫もまた、【神の愛=主イエス】に【礼拝:祈りと感謝】すれば【神の愛=主イエス】が授けてくれます!

●【常時歓喜!不断祈念!万事感謝!】
 いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全ての事に感謝しなさい。
 これがキリスト・イエスにあって神があなた方に求めておられることである(テサロニケ前書5‐16~18)
●望みて喜び、患難に耐え、常に祈れ(ロマ書12-12)
●苦しい事件に出会ったときは、先ず、それについて感謝に値する事柄を探し出し、それを率直に感謝しなさい。そうすれば、心に一つ安らかな気分が生じ、気持ちが落ち着くとその他の事も堪え易く思われてくる(ヒルティ)
●喜んで、必然に従う者、彼こそは賢者にして、神を知る者である(ヒルティ)

【神愛の助け】には期限も限界もありません。【神の愛=主イエス】はどんな時でも出し惜しみもせず何度でいつでもお願いすれば聞き入れて下さり、即座に祈り求める者の心の中に直接に助けに励ましに救いに来てくれる≪霊的な力≫です。

私たちから無条件に泥まみれで傷だらけのまま近づけば良いのです。私たちが【天の父】にはあまりに恐れ多くて近づけなくても、【神の子・主イエス】ならば、愛を尊敬を信頼を希望を憧れと尊敬をもって近づく事ができるはずです。

【創造主・天の父】の最愛なる【主イエス】を私たちも最愛とするならば、私たちは【創造主・天の父】ともつながれるのです!

●キリストは天と地と接触点なり、神と人との間に立つ仲保者なり(内村鑑三
●私の戒めを心に抱いている者は私を愛する者である。私を愛する者は私の父に愛されるであろう。
 私もその人を愛しその人に私自身をあらわすであろう。
 もし、誰でも私を愛するならば、私の言葉を守るであろう。
 そして、私の父はその人を愛し、また私たちはその人のところに行ってその人と一緒に住むであろう(ヨハネ伝14-21,23)

さあ、もう皆さんも安心ですね。明日に何かしら不安や心配があるならば、先ずは祈りましょう。
神の助けを求めてください。先ずは、今日の中で感謝できること見つけて感謝しましょう。
この【ゲッセマネの祈り】に従った習慣が身につけば、あなたは既に【神の愛の奇蹟】を自らの人生に手に入れたことと同じなのです。

●すべて労する者、重荷を負う者、我れに来たれ。我れ汝らを休ません(マタイ伝11-28)
●あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主に従う者を支え、とこしえに動揺しないように、はからって下さる(詩篇55-22)
●あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主は計らい、主が成し遂げてくださる。
 あなたの正しさを光のように明らかにし、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる(詩篇37-5~6)
●あなたの為すべきことを主に委ねよ、そうすれば、あなたの計画はゆるがず、必ず成る(箴言16-3)
●わが魂よ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。
 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(詩篇43-5)

●神はあなた方をかえりみて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい(ペテロ前書5-7)
●あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたのことを心配してくださる。(詩篇55-22)

皆さんも【神の愛=主イエス】の【礼拝:祈りと感謝】をもって【神愛の助け】に支えられた素晴らしい感動と【神の愛の奇蹟】とともに人生にチャレンジされることを心から望んでいます。

●愛の中に恐怖(オソレ)あることなし、全き愛は恐怖(オソレ)を除く(ヨハネ第1書4-18)
●愛は重荷を感ぜず、労苦を顧みず、自分の力以上のことを行ないたがる
●不可能を口にしないのは万事が自分にとり可能であり、許されていると考えるからである
●愛は万事に対する能力をもち、愛しないものならば、力尽きて倒れる場合にも多くの事を成し遂げ功を奏させる(以上トマス・ア・ケンピス)
●私たちはこのように多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、一切の重荷とからみつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの参加すべき競争を耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、また、その完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか(ヘブル書12‐1~2)Good luck & God bless you!