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人間の歴史と<【神の愛】の歴史>

◇◇≪人間の歴史&現実≫と【神の愛の歴史&現実】◇◇
【2003年2月22日に作成した<第291回>に加筆】 
2003年2月16日(日)19:00CSスカパーTV「カルバリー・チャペル」を観て

●十字架の言葉は滅び行く者には愚かであるが、救いに預かる私たちには神の力である(コリント前書1‐18)
●人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない。私があなた方に話した言葉は霊であり、
 また命である(ヨハネ伝6‐63)

現在の自分の存在価値観やこの世の歴史観には二通りあるのだと思います。
一つは人類から見た存在価値や歴史観であり、もう一つは創造主なる【天の父】なる神から観た私たちの
存在価値やこの世の歴史観です。

先日のテレビ伝道番組での川端牧師の説教には【霊感・インスピレーション】を与えられました。

私たちが日常学んできた≪表の歴史≫は人間中心の歴史と現実だというのです。それはある意味では≪権力の歴史≫であり、いずれも時代と共に消えて行った栄枯盛衰の歴史といえます。
一方で、私たちには世間的には≪ウラの歴史≫もあるといえます。それは神を中心として元祖アブラハムに始まる【信仰の歴史=神の愛の歴史】です。

ご存知のように、歴史を意味する「History」とは「His=神」 の「Story=物語」から由来すると言われています。

ところで、信仰の祖アブラハムの当時は、人間の「生け贄」さえも盛んであった、あらゆる民族が目で見て触れて確かめる事ができ、しかも人間側の都合だけで考えられる、現代にも存在する≪偶像崇拝≫が宗教の中心でした。

しかし、アブラハムだけは【見えない創造主】の声を聞き、見えないけれども、全知全能の【唯一の神】を【天の父】と信じ愛し拝めた事は【神の愛の奇蹟】です!

●世界を相続させるとの(神による)約束が、アブラハムの子孫とに対して なされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるのである(ロマ書4‐13)

【この世の勢力:富・権威・名声】から見れば、取るに足らぬ小さき弱き無に等しい者であった、アブラハムを通じて【神の愛の栄光】を現わされた【神の愛の歴史】といえるでしょう。

●兄弟たちよ、あなた方が召された時のことを考えてみるがよい。人間的には知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
●それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
●有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち無に等しい者を、あえて選ばれたのである。
●それは、どんな人間でも神の御前に誇ることがないためである。
●あなた方がキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、私たちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
●それは「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである (コリント前書1‐26~31)

そして、【神の愛=主イエス】と共に生きる【信仰の歴史】は4000年後の現代も成長し続け未来へと永遠に続く【神の愛の歴史】として築かれています。

●いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
 このうち最も大いなるものは、愛である(コリント前書13‐13)
●愛はいつまでも絶える事がない。しかし、預言はすたれ、異言は止み、知識はすたれるであろう(コリント前書13‐8)

私たちが≪表の歴史≫である≪人間の歴史≫に生きているにもかかわらず、いつでも【ウラの歴史】である【神の愛の歴史】を知り見出せるのは【神の愛=主イエス】の降誕のおかげです。

【神の愛=主イエス】の出現を境として世界標準の暦としては出現前と出現後を大別しました。

皆さんもご存知のように、「紀元前B.C.(Before Christ:キリスト以前)と「紀元後A.D(Anno Domini:神[主イエス〕の年)」とに区別されたのです。

【主イエス】の降誕は、単に≪人間の歴史≫の西暦だけを産出したのではありません。

同時に自己や社会や現実の見方・考え方をひっくり返すほどの大改革を実現したのです。コペルニクスが天動説を地動説にひっくり返したように、【主イエス】はそれまでの【神観】をひっくり返し、自己や社会の視点や歴史観をひっくり返してくれたのです。それまでの恐るべき【義なる神】は【聖なる愛】】に満ちた≪いつも一緒!≫の身近な【三位一体:父と子と聖霊】となったのです。

●愛は神より出づ(ヨハネ第1書4‐7)
●愛さぬ者は神を知らぬ、神は愛なればなり(ヨハネ第1書4‐8)
●愛は作法(オキテ)を完全(マットウ)す(ロマ書13‐10)

つまり、世界平和に通じる【自由と独立】を個人も社会も獲得するためには人間の権力や叡智や【十戒】に代表する【律法】でもなく、ただ【神の愛⇔隣人愛】こそが【ダイナミック・パワー:信じる力・望む力・愛する力】となって【神愛の奇蹟】の大逆転を起こしてくれることを【主イエス】は自らの生涯と教えによって示してくれました。

●人はパンをもって生きるにあらず、神の口より出づるすべての言葉による
 (申命記8‐3、マタイ伝4‐4、ルカ伝4‐4)
 ⇔人はパンをもって生きるが、パンだけで生きるのではない。神の命によって与えられたパン(主イエス)をもって生きる(内村鑑三)
●私が命のパンである。私に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決してかわくことがない(ヨハネ伝6‐35)
●私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは父のみもとに行くことはできない(ヨハネ伝14‐6)

世界の価値観が大逆転させられた証拠はシンボルの【十字架】の意味付けによって理解できるはずです。

【主イエス】が「十字架」で処刑されるまでは「十字架」は<死・憎悪・恨み・極悪>の象徴でしたが、【主イエス】が大逆転したのです!

【十字架】は<復活・愛・祝福・免罪>の象徴となり【信仰・希望・愛】の記しとなって、今ではファッションとしてロザリオは人類全てが歓迎するところとなっています。

【真理=神の愛】が現実の姿として受肉の【主イエス】自身となったことは、私たちには、それまでの<人間の歴史>で考えられてきた正義感や勇気や【自由・平等・寛容・博愛の精神】を大逆転させました。

【神の愛=隣人愛】をもってのみ実践できる【愛敵精神】が【神の正義】となり、誰もが守りきれない【十戒・律法】は大逆転されて、【隣人愛】の実践となって、私たちは誰でも天国に行くチャンスを与えられたのです!ハレルヤ!栄光を主に帰します!

●神は、ただに健やかなる者ばかりでなく、弱い者、病める者をも強くする(ヒルティ)
●イエスは言われた、
 『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なるあなたの神を愛せよ』
 これが一番大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である。
 『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』
 これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているこの二つの戒めに優る掟はない
 (マタイ伝22‐37~40、マルコ伝12‐29‐31、ルカ伝10‐26~28)
●心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、主なる汝の神を愛せよ(申命記6‐5)
●すべて人に為(セ)られん欲(オモ)うことは、汝等、神が汝等に為し給うごとくに人に為すべし(黄金律:マタイ伝7‐12)
●【愛の順序(内村鑑三)】
 第一に神を愛すべし、第二に世界と人類を愛すべし、第三に国と国人を愛すべし、第四に自己と家族を愛すべし
神の国はあなた方の内(間)にある(ルカ伝17‐21)
 ⇔天国とはどこのことでもない、人が人を愛するところである(内村鑑三)
●我々が出会うそれぞれの人のために、我々は何かしらやったり、言ったり、考えたりする責任がある(ヒルティ)
●心を尽くして神を愛せよ、それからあなたの欲することをなすがよい(ヒルティ)

私たちが<表の歴史>である人間の歴史観と存在価値によって人生を歩むよりも、世間的には<ウラの歴史>である【神の愛の歴史⇔信仰の歴史】として、自分自身や【隣人・社会】を見直してみて下さい。【新たな視点】で自分やこの世の出来事を観るならば、そこには何と素晴らしい【神の愛=隣人愛】に満ちていることかが理解できるはずです。私たちはいつも【神の愛】によって見守られているのです!

●神は時おり、自然の出来事や自然の事物を通して、私たちに話しかけることもある(ヒルティ)
●神は愛なり、宇宙は愛の機関なり(内村鑑三
●愛は神の霊としてこの世に満ちみちている(ヒルティ)

最近日本の学者が情報化社会のあるべき未来の姿として興味深い「コンセプト」を提唱しています。それは「ユビキタス(Ubiquitous)」という言葉です。

元来はラテン語の「神は同時に至る所に偏在する」という意味なのですが、そこから「どこにもコンピュータ(チップ)が介在し情報管理される社会」を目指すようです。

【人間】がさらに【神の愛】から遠ざかろうとする社会を目指そうとするかのようなチャレンジですが、そのおかげで【ユビキタス(Ubiquitous)】という言葉が日本に復活したことは感謝感激です!

●インヌマエル:神われらと共にいます (マタイ伝1‐23、イザヤ7‐14、8‐8)
●見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる <With You Always> (マタイ伝28‐20)

【神の愛の歴史⇔信仰の歴史】によって【神の愛の現実】を生きようと決意するならば、先ずは【悪:不完全・闇・苦難】と思われる事にこそ、【神の愛】は示されているという【新たな視点】をもつことこそが第一歩です。【悪】は【善】を知り見出すためにこそ必要であり【試練】は神から
与えられた【恩恵】であると知るからです。

●この世は不完全きわまる世なりという。しかり、身の快楽を得んがためには実に不完全きわまる世なり。しかれども、神を知らんがためには、しかして愛を完(マットウ)うせんがためには、余輩はこれより完全なる世につきて思考することはできない(内村鑑三
●忍耐を練らんとして、寛容を増さんとして、愛をその極致において味わわんとして、この世は最も完全なる鍛錬場なり(内村鑑三
●神はどんな悪も行われないようにするよりも、むしろ悪から善を生じさせるようにする方が善いと考えられたのである(アウグスティヌス
●怨に酬ゆるに徳をもってし
 憎に対するに愛をもってし
 悪に対するに善をもってする (内村鑑三
●悪に負けてはいけない。かえって善をもって悪に勝ちなさい(ロマ書12‐20)

皆さんが【神の愛の歴史&現実】の下の【新たな視点】で、この世の人生を突き進むことを心より応援しています!! Good luck & God bless you!

●神の側に立とうと決心するがよい。次にはあなたの力と個性に合わせてあなたに個人的に下される神の命令に従え(ヒルティ)
●神を知って万事ことごとく可なり、知らずしてことごとく非なり。主を知るは知恵のはじめである (ホセア書研究:内村鑑三
●人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか(箴言20‐24)
●人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。
 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。
 主がその手をささえておられるからだ(詩篇37‐23~24)