◇◇【チャンス:神の恵み】を見逃さないために~【ビジョン】直視(その1)◇◇
【2003年5月1日に作成した<第300回>に加筆】
「マルタとマリア(ルカ伝10‐38~42)」に学ぶ【使命・天職】への道
●すべてのことを、人々の言葉や評価によってではなく、あるがままに認める者はまことの賢者であって、人間よりむしろ神から教えを受けた者である(トインビー:イザヤ書54-13)
●たえず偉大な思想に生き、ささいなことを顧みないように努めなさい(ヒルティ)
神に大事にされ大切なる皆さんこんにちは。ご愛読に感謝します。
私たちが人生で陥りやすく注意すべきことは「目的」と「手段」を取り違えることだと思います。
たとえば、人生の最終目的は「幸福な人生を送る」ことであり、そのためには心に抱きつづける【ビジョン:理想・夢・志】を目指す事を理解していても、その前に世間的評価や経済的自立や「生活の安定」を目指す事の方が先決だと考えがちではないでしょうか。
何故なら、夢や理想ばかりを追いかけていても、日常の生活はできないと教えられているからです。
しかし、この世間一般に認められている価値観は【神の愛=主イエス】の教えと正反対です。
【ビジョン:理想・夢・志】は【神の声】により語りかける【ミッション:使命・天職】が示されていて、私たちは【ミッション:使命・天職】を実現するまでは不死身だからです。
●人はパンのみに生きるにあらず、神の口より出づるすべての言葉による(申命記8-3、マタイ伝4-4、ルカ伝4-4)
●人を生かす者は霊であって、肉は何の役にも立たない。私があなた方に話した言葉は霊であり、また命である(ヨハネ伝6-63)
●青年の夢を軽んじてはならない。それは大抵、その人のまだ自覚しない素質に応じたものであり、したがって、またその人の使命とも一致することが多い。つまり、人の使命も、最初はただ空想的な未来像として現われてくるものである(ヒルティ)
●神は御意(ミココロ)を成さんために、汝等の内にはたらき、汝等をして志望(ココロザシ)を立て、業を行わしめ給えばなり(ピリピ書2-13)
●衣食は天職の遂行のために伴う必然の附随物である(内村鑑三)
●人はその職を終了(オワ)るまでは不滅なるがごとし(リビングストン)
●我が事業の成るまでは我が死なざること、そのことは確実である(内村鑑三)
確かに、経済的自立や「生活の安定」は重要課題ですが人生目的ではありません。つまり人生目的である【ビジョン:理想・夢・志】のための≪実現手段≫の一つに過ぎないからです。
そこで危険なのは、せっかくの【ビジョン:理想・夢・志】を心に抱いていても、現実直視ばかりしていると、「あれが足りない」「これが必要だ」と現状否定と不安や不満ばかりが増加して、やがて大切な≪人生目的≫の【ビジョン:理想・夢・志】が後回しにされて、現状に不足している≪実現手段≫を満たすことや現状の不満・不安を解消することを最優先して、いつのまにか≪自己目的化≫してしまう事です。
【ビジョン:理想・夢・志】実現を目指すなら、否定的に現実直視するのを止めて現実肯定・現状満足できる【ビジョン:理想・夢・志】直視を、是非お奨めします。
2003年4月29日(火)CS朝日ニュースターで放送されていた「朝日新聞シンポジウム」では印象深い場面がありました。
パネリストには田中長野県知事と伊藤忠商事の丹羽氏と大蔵省官僚OBで現在早稲田大学教授と東大経済学の教授の4名が出席していました。
テーマは不確かですが「脱デフレと新たな経済システムの創造」のような内容です。田中知事以外の3名は共通して厳しい「現実直視」なので、現状のままでは日本経済の崩壊を招く危機的状況である事を主張します。
彼らの解決策としては、「経済回復のために全力を尽くせ!」とか「現在の中国の若者の意気込みを見習って元気と誇りを取戻せ!」とか「少子化を防ぐために子供を増やせ!」とか、「~が足りない、~が必要だ!」と今日現在の≪あるがままの姿≫では解消できないことばかりです。
一方で、田中知事だけは見方も解決策も異なっていました。デフレが問題ではなくて現状を冷静にみつめ現実肯定の立場で、個人個人が今すぐにできることから具体的に始めることで、政治も借金財政も社会全体も改善させよう!という提案でした。
まさに現実肯定・現状満足で【ビジョン:理想・夢・志】直視の立場だといえます。
聖書には「マルタとマリア(ルカ伝10‐38~42)」という有名な記事があります。
姉妹のマルタとマリアと【主イエス】との交流は多くの個所で紹介されています。ある日、マルタの招きでこの姉妹の家に立ち寄った時のことです。
マルタはおもてなしをすべく、食事や食卓の準備で忙しく立ちまわります。一方、マリアは【主イエス】のそばに座り静かに【主イエス】の話に聞き入っています。
【主イエス】をもてなすためにと準備に忙しくしていた姉マルタは、妹マリアの手伝わない態度を目撃すると【主イエス】に向かって苦情を訴えます。
「主よ、私の妹は私だけにもてなしをさせているのを何とも思いませんか?手伝ってくれるように言ってください!」(ルカ伝10‐40)
【主イエス】は静かに答えられます。
●マルタよマルタ、あなたは多くの事に思い悩み心を乱している(ルカ伝10‐41)
●しかし、無くてはならぬものは多くはない、いや一つだけである。マリアはその善い方を選んだのだ。そして、それは彼女から取り去ってはならない(ルカ伝10~42)
この何気ない短い記事にも、とても重要な事が示されていると私は実感しているのです。
【主イエス】が「思いがけず訪れる」という状況は、【ビジョン:理想・夢・志】実現の【チャンス】にも共通していることが示されていると解釈できます。
マルタは【主イエス】が訪問したなら、【主イエス】を受け入れるためには、先ずは「最善最良のおもてなしをしよう!」と日頃から考えていたのでしょう。
しかし、その日が今日だとは思ってもいなかったにちがいありません。
そのため、本来の目的である【主イエス】から≪愛の教えを学ぶ≫ことよりも、「おもてなし(手段)」の準備に忙しく立ち回って、せっかくの【主イエス】のそばにいる事もできず、かえって【主イエス】に不満をもらすという失礼までを行なうような、自分にも気づかないパニック状態に陥ったのです。
一方で、マリアの反応は違いました。【主イエス】が訪問すると、何よりも先ず現状の≪あるがままの姿≫で迷うことなく【主イエス】に真っ直ぐに近づいて、≪愛の教え≫を受け入れるための≪最善最良の態度≫を示したといえるでしょう。
マリアは常日頃から【主イエス】を待ち望む【ビジョン:理想・夢・志】直視の象徴だと理解します。そして、【神の愛】は【ビジョン:理想・夢・志】直視の態度こそ最も大切であると私たちに教示していると信じます。
この素直な【幼な子】の態度で【ビジョン:理想・夢・志】を待ち望むならば、【神の愛】によって最善の時と場所に応じて、必ず実現の【チャンス:恩恵】が与えられることを信じましょう!
●幼な子をそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのを止めてはならない。天国はこのような者の国である(マタイ伝19~14)
●有限の我等が無限の神に対して幼な心を懐くにいたって救われる。すなわち、幼な子となりて救われる(内村鑑三)
●知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子のような者にあらわした(マタイ伝11-25、ルカ伝10-21)
●私たちは幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなになった今は、幼な子らしい事を捨て去った(コリント前書13-11)
●天国とはそのような者(幼な子)の国である。幼な子のように神の国を受入れる人でなければ、決してそこに入いることはできない(マタイ伝19-14、マルコ伝10-13~16、ルカ伝18-15~17)
●意図には素直さを保ち、愛情には清らかさを保つべきである(トインビー)
★★【その2】につづく★★