◇◇【神の愛】は【使命・天職】のために百パーセント【エンパワー(権限委譲)】してくれる!(その1)◇◇
【2004年11月1日に作成した<第347回>に加筆】
●衣食は天職の遂行のために伴う必然の附随物である(内村鑑三)
●人はその職を終了(オワ)るまでは不滅なるがごとし
●我が事業の成るまでは我が死なざること、そのことは確実である(内村鑑三)
神に大事にされ大切なる皆さんこんにちは。ご愛読に感謝します!
今日現在、災害被害・苦難・人生どん底にある方々の【復活・再起】を願って、
明日に【【ビジョン:理想・夢・志】実現を目指す方々の【勇気・希望】になるよう
皆さんが【神の愛】に支えられ導かれることを心より祈っています!アーメン
【神の愛】は【自主独立:自由・独立】を目指し、各自の【タレント:個性・才能・可能性】を最善発揮することに導き自己実現・ビジョン実現と同時に【神の愛】実現を可能にさせる【神の愛の奇蹟】を実現してくれます。
先日の奥山牧師のTV伝道では興味深い話をしてくれました。
【神の愛=主イエス】は私たち各自の≪人格≫百パーセントを発揮させながら、同時に≪神の支配≫百パーセントを実現できるからこそ、人間業ではない【神業】であるというのです。
何故なら、対人・人間関係なら、ある人を自分の思い通りに百パーセント支配したければ、その人の≪人格≫は0パーセントになってしまうことを私たちは知っているからです。
経営の世界で≪エンパワー(権限委譲)≫という考え方がありますが、日本では≪丸投げ≫と混同している人が多いとTVで紹介されていました。
欧米で善き経営者・上司(ボス)が≪エンパワー:権限委譲≫するためには、上司(ボス)が部下の提案をしっかり聞きながら、十分な事前協議をして実現可能な為の必要な環境・人・モノ・金を用意してあfげる≪責任≫を持つ事だと説明していました。
まさに、我々の【最善最高のボス】である【主イエス=神の愛】は、私たち各自が心から望む【ビジョン:理想・夢・志】と【ミッション:使命・天職】実現の為に、≪人格≫百パーセントを尊重して【タレント:個性・才能・可能性】を最善発揮できる自己実現&【ビジョン】実現に向けて、完全支援してくれる【エンパワー(権限委譲)】であることを私は実感でき心から感謝しています!ハレルヤ!栄光を主に帰します!
●一切の仕事が、神をはなれては困難であり、神とともにあれば一切が可能である(ヒルティ)
●神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて万事を益となるようにして下さる、と私たちは知っている(ロマ書8‐28)
●神への信頼を失わずに、その試練を切り抜けるならば、他のいかなる道でも達せられないほど、神に近づく事ができる(ヒルティ)
●すべて彼(主イエス)を信じる者は失望に終わることがない(ロマ書10―11)
ご存知のペテロもマルコも当初は≪落ちこぼれ≫であっても、敵対関係のパウロであっても、いったん【神の愛】とつながれば、不実で弱虫で無力無能な私であっても、決して見捨てられることもなく、いつも見守られて導かれる事は、こんな私でも!と勇気と励ましを与えられます。真実の【神の愛=主イエス】と共に歩むためには、自分の不実と弱さを堂々と誇りましょう!
●だから、私はキリストのためならば、弱さと侮辱と危機と迫害と行き詰まりとに甘んじよう。
何故なら、私が弱い時にこそ、私は強いからである(コリント後書12-10)
●私たちが不真実で誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである(テモテ後書2-13)
●主が言われた『私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる』それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ喜んで私の弱さを誇ろう(コリント後書12~9)
●神はあなた方にあらゆる恵みを豊かに与え、あなた方を常にすべてのことに満ち足らせ、すべての善いわざに富ませる力のある方である(コリント後書9‐8)
●嘆くのはやめて旅をし続けるがよい。すでに与えられたものをしっかり守れ。この午後をなお歩み続けるならば、夕べには平和がさし招くであろう(ヒルティ)
信念も勇気も中途半端で弱き卑怯者で≪罪人の筆頭≫である私自身にでも、【神の愛】は忍耐強く寛容です!
●私は自分を強くしてくださった私たちの主キリスト・イエスに感謝する。主は私を忠実な者と見て、この務めに任じてくださったのである(テモテ前書1-12)
●私は以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかし、私はこれらのことを信仰がなかった時、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである(テモテ前書1-13)
●その上、私たちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた(テモテ前書1-14)
●「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださった」という言葉は確実で、そのまま受け入れるに足るものである。私は、その罪人の頭である(テモテ前書1-15)
●しかし、私があわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まず私に対して限りない寛容を示し、そして、私が今後、彼を信じて永遠の命を受ける者の模範となるためである(テモテ前書1-16)
【聖書】に登場する先人が本来の【自分らしさ・オリジナリティ】を最善発揮しながら【ビジョン:理想・夢・志】を描いたように私たちも、自分の【ビジョン:理想・夢・志】&自己実現を目指したければ、【善き羊飼い・ボス】である【主イエス=神の愛】に向かって、絶えず≪超歓喜!超感動!超感謝!の大讃美!大絶賛!大称賛!≫の【礼拝:讃美と祈りと感謝】を捧げ≪泥んこの自分≫のままで、幼な子のように「父ちゃん!母ちゃん!兄ちゃん!」と無邪気に自ら助けを求めましょう!
●自分の意志をまったく神にゆだねて、ひたすら神の道具でありたいと思う人は不思議に、どんな祈りも聞き届けられる。そういう人はただ願い求めればよいのだ。そうすると憂いも怖れもなく、至福の状態で、あらゆる困難を切り抜け、生涯の日々をすべての人々とまじって生きて行くことができる(タウラー)
●有限の我等が無限の神に対して幼な心を懐くにいたって救われる。すなわち、幼な子となりて救われる(内村鑑三)
●知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子のような者にあらわした(マタイ伝11-25、ルカ伝10-21)
●幼な子をそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのを止めてはならない。天国はこのような者の国である(マタイ伝19~14)
●私たちは幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、幼な子らしく考えていた。
しかし、おとなになった今は、 幼な子らしい事を捨て去った(コリント前書13-11)
●天国とはそのような者(幼な子)の国である。幼な子のように神の国を受入れる人でなければ、
決してそこに入いることはできない (マタイ伝19-14、マルコ伝10-13~16、ルカ伝18-15~17)
●意図には素直さを保ち、愛情には清らかさを保つべきである(トインビー)
そうすれば、【神の愛=主イエス】は喜んで私たちの望む【最善の道】のために百パーセント必要なものを提供してくれます!
●主よ、私は知っています。人間の道は、その人によるのではなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを(エレミヤ書10‐23)
●人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか(箴言20‐24)
●人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かにするものは主である(箴言16‐9)
●人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。
その人は倒されてもまっさかさまに倒されはしない。
主がその手を支えておられるからだ(詩篇37‐23~24)
●私はあなた方に悟りを与え行くべき道を教えよう。私はあなた方に目を留めて助言を与えよう(詩篇32‐8)
●神に従う者の道は平らである。あなた(主)は神に従う者の道筋をならし平らにされる(イザヤ書26‐7)
●神を知って万事ことごとく可なり、知らずしてことごとく非なり 。主を知るは知恵のはじめである(ホセア書研究:内村鑑三)
私の人生でも仕事でも【最高司令官・親分・主人・ボス】は優しくて強くて最善最強の頼りある方である【主イエス=神の愛】です!
私は自分の責任で失敗しても挫折の≪どん底≫でも、【律法:十戒・道徳】からみれば破戒的行為の結果、孤立無援であっても、途方に暮れて《泣きじゃくる》だけの幼な子のように、ただひたすら【主イエス=神の愛】を捜し求めます。
≪人間の愛≫と異なって、【神の愛=主イエス】は、どんな立場でも、いつでも、どこでも優しく静かに迎えてくれることを信じましょう!
●あなたのしようとすることを主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計画はゆるがない(箴言16-3)
●真っ先に人間に慰めを求めないで、神にそれを求めなければならない(ヒルティ)
●神(愛)を信ぜよ、さらば神は汝の必要に応じて全ての善き物をもって汝を恵まん(内村鑑三)
●おまえの不幸に打ち負かされるな。神に頼れ、そうすれば勝つだろう。
洪水が襲ってきても、おまえは上にあって、溺れないだろう。
苦し過ぎる重荷を負わされたならば、
主なる神が既にお前の願いを聞き給うたのだ(パウル・ゲルハルト)
★★【その2】につづく★★