◇◇自分の【弱さ】を誇ろう!(その1)◇◇
【2006年4月25日に作成した<第403回>に加筆】
●主は言われた『私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる。』
それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう(コリント後書12-9)
●主は恵みと憐れみ深く、正義を行われる。まことに私たちの神は情け深い。
主は無学な哀れでわきまえのない者を守られる。私が低くされ、おとしめられ、弱り果てた時、主は私を救われた。我が魂よ、再び安らうがよい。主はお前に善くして豊かに報いてくださったからである。
あなたは私の魂を死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、助け出し救ってくださった(詩篇116-5~8)
【神の愛】に大事にされ大切なる皆さんこんにちは。ご愛読に感謝します!
日々の生活で様々な【苦難】に直面しながらも耐え忍び前進し続けてようとする皆さんの【心意気】を応援しています!
私自身もまた自分の無知無能な結果として追い込まれていますが、いつも【神の愛=主イエス】に助けられています!
だからこそ、私が皆さんに心から自信と誇りを持って、お奨めできる【患難辛苦】を克服できる【最善最強の方法】とはまさに【神の愛=主イエス】への信愛の証しである【礼拝:讃美と祈りと感謝】なのです!ハレルヤ!栄光を主に帰します!
私の人生における生涯の【最大の宿敵】とは私自身の【闇:不義・不完全】から生まれる【弱さ:欠点・短所】であるといつでも、どこででも痛感しています。皆さんも自分の【弱さ】とうまく付き合えていますか?
自分だけでなく世間的にも嫌悪される【弱さ:欠点・短所】が多い私が、もし【神の愛=主イエス】を知らなかったならば恥辱に耐えられず、自己不信や自己嫌悪で押しつぶされていて、今頃は皆さんとも交流できなかったと確信できます。
私自身の【弱さ:欠点・短所】が強大で、おぞましいので、世間一般で通じるような少々の慰めや励ましでは無理です。
たとえば、私よりも不幸であったり、肉体的・精神的に苦労しながらも挑戦している【勇気ある人々】を見聞きすることで「俺はまだましだ!がんばるぞ!」「俺の悩みは何て贅沢なんだろう・・・サボらずに一生懸命やるぞ!」とはなりません。
謙虚で素直な人ならば自分よりも悪条件で挑戦している人を見聞きすすれば、励まされ慰められるかもしれませんが、私は天下一のひねくれ者であり、嫉妬深く、意地っ張りで、傲慢で、自分勝手なので、そんな程度では感動しません。
それならば、「偉人伝」はどうでしょうか?天才偉人には私には無い【強み】があったからだと、直ぐに失望するだけです。
つまり、私のような最悪な【弱さ:欠点・短所・弱点】だらけで、無知無能なくせに、傲慢で自己中心の【エゴの塊】には、ひとたび堕落腐敗したら、再起再出発できる【チャンス】も救いもないのでしょうか?ところが、こんな私にもあったのです!
それこそが、【聖書:イエスの生涯と教え】そのものです!【聖書】はいつも優しく懇切丁寧に何度でもいつでも、どこでも私のためだけに≪マンツー・マン指導≫で適切に慰めてくれ励まし希望と勇気を与えてくれる【最善最強の味方】です!
【聖書】は単なる書物ではなく【霊的生命】であり、私の【霊性:魂[勇気]・善意・良心】に直接語りかけてくれるのです。
たとえ私がどんなに薄汚くても、意気地なしでも、私のために永遠不滅の【ビジョン:理想・夢・志】が与えられていることを思い出させてくれるのです。
「そうだ!私が生かされているのは【ビジョン:理想・夢・志】を過去から未来へと手渡すことだ!」
世間と比較することなく、私の【最善】は、私の【存在意義】【人生目的】は私の【ビジョン:理想・夢・志】実現にこそある!
【神の愛=主イエス】と一体感となる【ビジョン:理想・夢・志】こそが私にとって慰めであり励ましとなり希望と勇気の源です!
【ビジョン:理想・夢・志】もまた【神の愛=主イエス】が私たち各自の最善発揮のために与えてくれた【万物】そのものです!
●キリストは我が万事(すべて)であるということである。キリストは我が義である、我が潔めである、
我が救いである。我れキリストを信じて我が為すべき万事をなしたのである。
「そは神の充足(みちた)れる徳は、ことごとく形体(かたち)をなしてキリストに住めり(コロサイ書2-9)」
神はキリストにありて万物を人に与え給うのである。しかして人はキリストにありて万物を神より受くるのである(内村鑑三)
これほど【神の愛=主イエス】に助けられている感謝感謝の私でも、当然ながら、万策尽きて途方に暮れることがあります。
【神の愛=主イエス】と共に歩みたいと熱望しているのに、【患難辛苦】に会うと、たちまち忘恩な【弱さ】に負けてしまいます。
矢をさされて逃げ惑う野鳥の姿のようなものです。自分でも家族でも仲間(世間)の誰も「矢=患難辛苦」を取り去ることは困難です。にもかかわらず、「おいで、助けてあげるよ!」と人間が近づいても、恐れて逃げ惑う姿は、私自身そのものです。
せっかく【神の愛=主イエス】の方から助け出そうとしているはずなのに我慢できず自分勝手に動いて【神の愛=主イエス】に背を向けてしまい、世間の誰かに救いを求めてしまう【弱さ】には、自分自身でも、あきれ果てるばかりです。
私にとって、《この場》で皆さんに語り伝えている【福音伝道】こそが私自身に与えられた【ミッション:使命・天職】である!と確信しています。にもかかわらず、私の【福音伝道事業】継続に障害となる現実問題に直面すると、すぐに原因を探します。
私はどこの教会組織にも帰属しておらず、神学校とも無縁です。世間的にはクリスチャンではなく、【洗礼】も受けていません。しかも牧師の資格も無く、《もぐりの医者》のような存在です。
「そうか、だから、私の伝道活動は思い通りに花開くことなく、【パワー】もないのかもしれない・・・」と弱音を吐いてしまうことがたびたびありました。そのたびに誰かに【洗礼】さえしてもらえば事態は改善して【洗礼】を受ければ【弱さ】を克服できる!と自分の都合であがき苦しんだものです。
そこで約束無しで立ち寄ったカトリック教会で初対面の神父に【洗礼】をお願いしてみました。実は、ある外国映画のシーンでカトリックでは思い立ったら、直ぐに【洗礼】してくれるという会話を思い出したからです。一方で一般的にプロテスタント教会は教会にある程度通わないと簡単に【洗礼】をしてもらえないと聞いたことがあったので、とりあえずカトリック教会を訪問したのです。
ところが、突然訪問したこともあったのでしょう、私の身勝手な都合と立場では、残念ながらそ【洗礼】をしてくれませんでした。
また、ある時はテレビ伝道の牧師の関係者を通じて、頼んでみたことがありましたが、いつになっても連絡がありませんでした。
しかし、今日現在の私にとって、誰からも【洗礼】を受けいていないということを心から感謝しています!【洗礼】を授けてくれるのは【神の愛=主イエス】その方であり、教会制度や人を介さずとも直接に【神の愛=主イエス】は私たちの心に来てくれる証明です!
●真理は教会より大なり(内村鑑三)
●神は何らかの教会制度や、さらにある一定の学問の中に限られてはいない。そのようなものがなくとも、神は自らを知らしめ給う(ヒルティ)
●教理を知らないでもクリスチャンである者が少なくない。キリスト教は証明せらるべき教義ではなくて、生活さるべき一つの生命である(ヘンリー・ドラモンド)
●キリストは教会の救い主にあらずして、世界の救い主なり。彼は今や狭き教会を去って広き世界に偏在したまう。キリストの教会は世界にして会員は人類なり(内村鑑三)
【洗礼】も受けず「クリスチャン」でもなく,教会組織や特定宗派にも属さない【【自主独立:自由・独立】である私の立場だからこそ、カトリックでも正教でもプロテスタントでも宣教組織とも異なった、【福音伝道】が実現できることを私は感謝します!ハレルヤ!
●汝は王者なれば ただ一人征(ゆ)け 自由の大道を自在なる英知もて進め。その尊き偉業の報いを欲せず自らが愛する思想の実をば結びゆけ(プーシキン)
●【タゴールの名言・格言】
★君の呼びかけに、だれも答えないならば
君よ、我が道を一人征(ゆ)け
皆が恐れを抱いて沈黙するならば
君よ、開いた心と恐れなき声をもって、ただ真実のみを語れ
★暗い嵐の夜に
だれも松明(たいまつ)に火をつける者がなく
扉をたたく君に
だれ一人として応じる者がいなくとも
君よ、失望してはならない
雷(いかずち)が激しくとどろくなかで
我が心の松明に火をつけ
一人、暗闇(くらやみ)のなかで火を燃やせ
★われわれの力がどんなに小さくとも、また、われわれが世界のどの一隅に属していようと、
われわれ個人は全人類を理解する意識の力を増大させるよう自分自身に要求する。
私は独りゆえの【弱さ】で連戦連敗ですが、一方では自分独りだからこそ、組織の論理や先例に遠慮することなく、自分勝手に大胆に自由自在の【福音伝道】ができることは至上の喜びであります!【弱さ】ゆえに与えられた満足感です!
●人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見出せるようにして下さった。
事実、神は我々一人一人から遠く離れておいでになるのではない。
我々は神の内に生き、働き、存在しているからである(使徒行伝17‐27~28)
●神はあなた方にあらゆる恵みを豊かに与え、あなた方を常にすべてのことに満ち足らせ、
すべての善いわざに富ませる力のある方である(コリント後書9‐8)
●【最大の能力(内村鑑三)】
確信と称する活動力ではない、信仰と称する一種の依頼心である。
これが世界を動かした力である。
先ず我の無能を覚って、しかる後に神の大能に頼る、かくて自己は死して
神、我にありて生きるに及んで、我は真個の勇者となる。
●嘆くのはやめて旅をし続けるがよい。すでに与えられたものをしっかり守れ。
この午後をなお歩み続けるならば、夕べには平和がさし招くであろう(ヒルティ)
皆さんも活躍している分野・領域で、時には孤立無援であったり、万策尽きて途方に暮れたり、【患難辛苦】に直面することで【弱さ】に負けることもあるでしょう。特に、自分の思い描く【ビジョン:理想・夢・志】を目指す時には【弱さ】に惑わされるでしょう。
そんな時は、【弱さ】を受入れて【弱さ】にこそ、かえって自分の【強み】を新発見して、自分の【弱さ】こそ誇ろうではありませんか!
世間的常識や【この世の勢力:富・権威・名声】から観て【弱さ】であることは、【神の愛=主イエス】から見れば【強み】です!
●私(神)の思いはあなた方の思いと異なり、私の道はあなた方の道と異なる。
天の地よりも高いように、私の道はあなた方の道より高く、私の思いはあなた方の思いよりも高い(イザヤ書55-8~9)
●おまえの不幸に打ち負かされるな。神に頼れ、そうすれば勝つだろう。洪水が襲ってきても、おまえは上にあって、溺れないだろう。苦し過ぎる重荷を負わされたならば、主なる神が既にお前の願いを聞き給うたのだ(パウル・ゲルハルト)
●お前の意図に反しても、それは全くもう駄目というわけではない。目前の感じによって 物事を判断するのは間違いである(トマス・ア・ケンピス)
●あなた方はこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私(主イエス)はすでに世に勝っている(ヨハネ伝16-33)★★【その2】につづく★★