◇◇最善の最後(その1)◇◇
【2002年11月14日に作成した<第278号>に加筆】<改訂版・再掲載>
2002年11月12日(火)22:00NHK・BS「アジア発ドキュメント中国砂漠緑化」
11月13日(水)13:00NTV「思いきりテレビ:今日は何の日・町春草」
●【最善の最後(内村鑑三)】
信者の生涯は始めは悪くして、終わりは善くある。
終わりに近づくほど、ますます善くある。
最後(ラスト)が最善(ベスト)である。
●The Best is yet to come!<最善の時はこれからだ!>(ブラウニング)
【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さんこんにちは。ご愛読に感謝します。
先日ドストエフスキー原作の70年代のソ連製作の『罪と罰』をTV映画で観ました。
中高生の頃に何度か読破することに挑戦したものの、中途にて読みきれないままに今日を迎えられたことを、今では【神の愛=主イエス】に感謝しています!
何故なら、【神の愛=主イエス】を実感していなかった若き日の私ならば、『罪と罰』の真意が理解できずに誤解していたと思うからです。
皆さんの多くは既にご存知の作品であると思います。さらに、私の観た映画は原作とかけ離れているかもしれません。しかし、あえて私の感想を述べさせて下さい。
私の理解した『罪と罰』とは、神から観た「罪と罰」とは何かをを解り易く明示してくれた作品だということです。
神に対する「罪」とは何でしょうか?それは、作品にも登場する主人公や庶民が引き起こす殺人や売春や偽証や高慢など、単に「十戒」に反することではないと思います。
例えば、主人公の神に対する最大の「罪」とは殺人ではなくて、自力本願により【ビジョン:理想・夢・志】を実現できると考えたことです。
彼には「非凡な人間になりたい!」という【ビジョン:理想・夢・志】がありました。
多くの人々は【この世の勢力:富・権威・名声】に支配され隷属する自由のない「凡人」に思えた彼には、自由に生きる非凡な英雄としてナポレオンを崇拝したのです。
何故なら、ナポレオンは自分の信じる理想実現のためには殺人(戦争)だって断行できる勇気を持っていたからです。
主人公は大学中退し家賃滞納の貧乏作家です。貧しい母親からの仕送りに頼るしかなく、そのため妹が家族の家計のために、初老の男と結婚しなくてはならないことを知ります。
その上、大切にしていた父親の形見の時計を質入した時に、質屋の老婆の冷たい態度に遂に我慢できなくなり、殺害する決意をするのです。
この作品は現実生活の不条理から引き起こされた殺人をテーマにしたのではないと思います。
人間にはせっかくの【ビジョン:人生理想】があっても、自力のみで実現しようとすればするほど、悪循環に陥る危険にあるというメッセージだと私は考えます。
さて、主人公は人間社会において恐るべき「罪」を犯しました。殺人における「罰」は人間社会では「自由」を奪う事です。
刑務所に閉じ込め労役させるか、究極は命を奪う「死刑」のいずれかといえるでしょう。
しかし、神の定める「罰」は全く異なる事をドストエフスキーは明示してくれたのです。
神が与える「罰」とは、【真の自由】を与えることでした。
●【真の自由(内村鑑三)】
◆真の自由は発意である ⇔ Unconditional(無境遇)
◆真の自由は正しき選択である ⇔ 霊性本来の標準に従う~霊的生命達成の道
◆真の自由は善き意志を行う能力である
●真の自由は消極的状態でなく積極的状態である
何事をも為しうる状態又能力でなく,ある事を為さずしてある他のことを為す能力
⇔善悪を判別して悪を避けて善を行う能力
●自由とは理想にあらず、境遇にあらず、能力である
●Ican do that which is right.(我は正しき事を為し能う)
主人公は何度か逮捕されそうになりますが、その度に【神の導き】により救われます。
そして、彼は自分に残された【自由意志】を使って家族や【隣人・社会】の【霊性:魂[勇気]・善意・良心】を救うために努力する人間に生まれ変わって行くのです。
●誰でも新しく生まれ変わらなければ神の国を見る事はできない(ヨハネ伝3‐3)
彼は【神の愛=聖霊】に導かれて、殺人を犯すまでは感じる事もなかった【隣人愛】に目覚め、いつのまにか自分自身が【ビジョン:人生理想】としていた「非凡」な人間になっていたのです。
彼が理想とすべきは英雄ナポレオンではなく、【救世主イエス】だった事を彼は自覚して行くのです。本当の勇気は人を助けることであることを学ぶのです。
『罪と罰』とは私自身や全ての人生にもあてはまる大切な【真理】だと思えるのです。
それは、神に頼らずに独力のみで【ビジョン:理想・夢・志】を目指そうとする時は、世間や【この世の勢力:富・権威・名声】との摩擦や妨害によって悪循環に陥る危険があり、結局は【神の愛=隣人愛】から遠ざかり見失ってしまう「罪」の始まりとなるのです。
そして、神の定める「罰」とは人間が考えるような自由を奪う「処罰」ではなくて、かえって【真の自由】を自覚させるように導いて生まれ変わる【恩恵・チャンス】を与えてくれることだと私は考えます。ハレルヤ!栄光を主に帰します!
●我らのなお亡びざるはエホバの仁慈(イツクシミ)により、あわれみの尽きざるによる。
これは朝ごとに新しく、あなたの真実はそれほどに大きく深く力強い(エレミヤ哀歌3‐22~23)
●摂理と確かな知恵とは、私にある。私は分別であって、私には威力がある。 私によって、王たる者は世を治め、君主たちは正しい掟を定める。 君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、私によって治める。私を愛する者を、私は愛する。私を熱心に捜す者は、私を見つける(箴言8-14~17)
●魂の喜びにまさる喜びなし。これによりて枯骨もなお芽をふく。この喜びを我が主は常に我らのために増したもう(ヒルティ)
●神は、キリスト・イエスにおいて私たちが賜わった慈愛による、限りなく優れた豊かな、神の御恵みの絶大なる富を、来るべき世々に現そうとされた。事実、あなた方は、恵みにより、信仰によって救われた。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物である(エペソ書2-7~8)
★★【その2】につづく★★