【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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【神愛福音道】【聖書価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】 【<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>創世道】

Our Main Business①

◇◇我々の大事な務め<Our Main Business>(その1)◇◇
【2003年1月4日に作成した<第285号>に加筆】<改訂版・再掲載>

●自分の仕事を知り、それを為せ。我々の大事な務めは遠くの方におぼろげにあるものを眺めていることではなくて、手元にあってはっきりしている事を行うことである(カーライル)
●起きよ、光を放て、あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上に輝いているからだ(イザヤ書60-1)

【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さんこんにちは。ご愛読に感謝します。

ご存知のように正月早々テレビでジャンヌ・ダルクのドラマが放映されています。
年末から年始にかけて放映された「忠臣蔵」と共に、私には強く心に感じるものがあります。それは【大義:使命・天職】を自覚して【神の愛=隣人愛】と共に進め!という【神愛のメッセージ】です。

私たち各自に託された<大事な務め>である【大義:使命・天職】を見出すにはカーライルの名言にあるように、あまり自分の日常とかけ離れた<遠くの方>を捜しても発見できないかもしれません。

それでは私たちの<手元>とはどこでしょうか?それは地理的距離感でもなく、経験や知的レベルで測るのでもなく、自分の【霊性:魂[勇気]・善意・良心】に強く訴える<愛好心>や正義感や使命感に通じる<身近な分野>のことだと思います。

●しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためでなく、本心からそれをなしなさい(ペテロ第1書5-2)
●各自は惜しむ心からでなく、また、強いられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。 神は喜んで施す人を愛してくださるのである(コリント後書9-7)
●野心からも、単なる義務感からも、本当に価値あるものは生まれてきません。
 本当に価値あるものは、むしろ、人や事物を深く愛する心から生まれてくるのです(アインシュタイン

緑に親しめる家庭菜園を愛好する人が、実は砂漠化や心の荒廃から世界を救うための貴重な<一歩>であることを自覚できれば、単なる趣味と思われた事が世界的な大事業に通じることだってあるからです。

●御身が手に取る帚(ホウキ)をもって、世界の一部を潔くせられよ(ホイッチャー)
●大いなる事業が完成されるためには、ひとつの精神があれば足りる、千の手を動かすために(ゲーテ)
●大事業の端緒はまず目前の義務を果たすことなり(内村鑑三
●どんな大きな仕事であっても、それを細かに分けて、いつも手近なものだけを眼中に置くならば、それは小さな仕事をするのと同じになる(ヒルティ)

例えば、以前メルマガ143号で紹介した八木沢さんのチャレンジは感動的です。

八木沢さんはボランティア活動でカンボジア難民救済などで活躍した後に、日本で暮らす事をやめて、タイのバンコク市内のスラム街で生活することを決意します。

貧困の【どん底】で毎日を暮らす地元住民は産業廃棄物や生ゴミの山に囲まれた生活にも慣れてしまい、すさんだ生活で働く意欲までも失っている悪循環でした。そして、誰からも見捨てられて、麻薬や犯罪が絶えず、子供たちの将来までをも奪っている悲惨な状況だったのです。

しかし、八木沢さんの家族だけは違いました。子供を産んで育てた八木沢家の前は、いつも掃除し清潔で「自然:花と緑」を絶やすことがありませでした。

そんな光景を見た隣人たちは冷ややかな態度だったそうです。

 「掃除してもどうせ汚くなるだけさ」
 「花を植えたところで盗まれたり壊されるだけさ」

【神の愛=隣人愛】に溢れる八木沢さんには、彼等の<本心>からの気持ではないことを理解し彼等を信じていました。
実はスラム街の住人は長い間の困窮のために自暴自棄になって【愛】が冷却してただけで、もともと彼等は山岳先住民の時代から「花と緑」をこよなく愛する民族だったからです。

●神は善きを視るに敏くして、悪魔は悪を探るに巧みなり。神は奨励する者にして、悪魔は失望せしむる者なり(内村鑑三
●神の神たるは人の善きを思うて悪しきを思わざるにあり。
 悪魔たるは人の悪しきをのみ思いえて人の善きを思いえざるにあり(内村鑑三
●人の心を見て慈悲をもて、行いだけを見て責めるな(キングスレー)
●悪い事の中にもなにほどかの善の魂がまじっている。人が注意ぶかくそれをさがし出すならば(シェークスピア
●善の勝利についての絶望は常に個人的勇気の欠乏である(ヒルティ)

周囲に邪魔されても無視されても、八木沢家の周りだけは、いつも清潔で「花と緑」に包まれていました。

八木沢家は【自然:第二の聖書】の美しさを通して【神の愛=隣人愛】を伝道した【愛】の宣教師そのものです!
そのような苦節7年がたつと、スラム街に変化が起きます。

彼等の中から「花と緑」を育てる住人が現われだし、同時に身近なところから清掃するようになって行きました!

現在では捨てられたゴミを再利用させることを思いついて、廃品回収業として地元住人の生計をまかなえる立派な仕事までが産まれたのです。

彼等住民が愛好する「花と緑」が復活し始めると同時に、彼等の【霊性:魂[勇気]・善意・良心】の復活までが起こり、さらに前進し続けます。

ゴミ活用の収益によって移動図書館や常設図書館をタイ全国に展開して子供に学ぶ機会と<希望ある未来>を提供できるまでになったのです。

「花と緑」を植える手元の身近な一歩によって、<汚いゴミの山>が<宝の山>となり、誰もが見捨てて不可能と思われた<地獄>が人々に愛と希望を分け与える<天国>にまで大転換させる【神の愛の奇蹟】が起きたのです!

どんな苦しい【愛の種まき】でも、必ず素晴らしい【愛の収穫】を得る証明です!ハレルヤ!栄光を主に帰します!

●どんな善き衝動にも、ただちに従うという習慣は楽園に至る一番の近道である(ヒルティ)
●涙とともに蒔く者は歓喜とともに刈取らん。その人は種をたづさえ涙を流して出で行けど束をたづさえ喜びて帰り来たらん(詩篇126‐5~6)
●「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」種を蒔く人も刈る人も共に喜ぶ(ヨハネ伝4‐36~37)
●汝のパンを水の上に投げよ、多くの日ののちに、汝再びこれを得ん(伝道の書11‐1)
●汝の真理を社会の中に投ぜよ、年を経て汝はその偉大な結果を見るを得ん(内村鑑三
●少ししか蒔かない者は、少ししか刈取らず、豊かに蒔く者は豊かに刈取ることになる(コリント後書9-6)

たとえ、悲惨な不条理の暗黒の世界のように見えるスラム街と人の心でも、必ず復活する!と信じ望み愛した八木沢さん一家の【神の愛=隣人愛】の圧倒的な完全勝利です!

●力を与え強めて下さるキリストに助けられて、私は、何事も成し遂げることができる((ピリピ書4-13)
●愛は重荷を感ぜず、労苦を顧みず、自分の力以上のことを行ないたがる(トマス・ア・ケンピス)
●不可能を口にしないのは万事が自分にとり可能であり、許されていると考えるからである(トマス・ア・ケンピス)
●愛は万事に対する能力をもち、愛しないものならば、力尽きて倒れる場合にも多くの事を成し遂げ功を奏させる(トマス・ア・ケンピス)

八木沢さんはテレビ番組の中で興味深い経験談を教えてくれました。

 「一度きれいになるとゴミ棄てはなくなります。
  ゴミがあれば誰かが拾い片付けます。
  汚すなというよりは、きれいな見本を作ることです」

●人を信じさせるものは経験である。自分も経験してみたいと言う願望と気分とを起こさせるものは、その経験をした人たちの証明である(ヒルティ)
●人間のうちに善をのばしてやり、彼らの心に善に対する愛好心を注ぎ込むことが必要である(ヒルティ)
●あなた方が私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなた方と共にいますであろう(ピリピ書4‐9)
●やって見せ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かぬ(山本五十六

★★【その2】につづく★★