【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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【神愛福音道】【聖書価値観】<神愛価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】

【神の愛】に見守られている!①

◇◇【見守(知)られている】実感が【信・望・愛】と勇気を抱かせる!(その1)◇◇
【2003年5月22日に作成した<第303回>に加筆】<改訂版・再掲載>
★★SARS問題、裁判員制度、手抜き工事などに考えること★★

●人間は生きる勇気の支えを何かに求めなければならない(ヒルティ)
●人が神を愛するならば、その人は神に知られているのである(コリント前書8‐3)

【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さん、ご愛読に感謝します。

誰からも信頼されていなくても、自分の【霊性:魂[勇気]・善意・良心】に従った決断と実行ができるのでしょうか?

誰の力も借りずに、いつでも【自力】だけで【信じる心・望む心・愛する心】を抱きつづけることはできるのでしょうか?

少なくとも私は自信がありません。私の立場を理解したり共感してくれる誰かに【見守(知)られている】という実感がなければ、私は【パッション:受難覚悟の情熱・熱望・気骨】も起きません。

たとえば、このメルマガにしても、皆さんが励まし理解してくれると思えるから、そして、時には皆さんからの心温まる励ましのメイルに勇気付けられているから、こんな意気地なしで怠け者の私でも、皆さんに伝えたい!という熱い意欲が涌くのです。皆さんの忍耐強い購読に改めて深く感謝いたします。

ご存知のように、最近ではアジアにおいてSARSが深刻な問題になっています。

中国では、原因が判明しない当初は院内感染が中心でした。その為、苦しむ患者を看護した医療スタッフの多くが残念ながら犠牲となりました。

中国人は多発テロの時の勇気ある「消防士の活躍」に思いを重ねて、犠牲となった医療スタッフのことを「ヒーロー」と称えたそうです。

しかし、感染の危険を理解した現在では多くの医療スタッフが現場の患者を残して逃亡している報道がされています。彼等にしてみれば止む終えない判断でしょう。

以前メルマガで何度か紹介したように、米国では時には生命を投じる危険な職種の消防隊や軍隊には【従軍牧師(チャプレン)】がいるそうです。

多発テロの時にも、消防隊の最前線には80歳前後と思われる高齢の【従軍神父】が天を仰ぎ、隊員を暖かく見守る光景が、フランスのジャーナリストが撮影した映像で知る事ができました。

【従軍神父】は危険を覚悟で突入する隊員のために、ヘルメットを脱ぎ<祈り>を捧げていた時に落下物に衝突して昇天したそうです。最初の犠牲者は神父でした。

片方のビルが崩壊したために砂埃で真っ暗となったビルの中を、隊員が【神父】を大切に抱きかかえて近くの教会まで連れ出す光景も撮影されていました。

イラク戦争の時にも、【従軍牧師】から「祈り」を捧げられて励まされ見守られる若い兵士たちの姿を映像で見ることがありました。

【従軍牧師】に最も危険な現場に共に立って、暖かく見守(知)られているからこそ、消防隊や兵士たちは勇気を抱いて自分の【ミッション:使命・天職】に向かって突き進むことができたのだと思います。

人道的に反する【兵士の立場】を理解して暖かく【見守(知)られている】という【神の愛】を実感できるから、勇気ある行動ができるのではないでしょうか。

●私を強くして下さる方によって、何事でもすることができる(ピリピ書4‐13)
●愛の中に恐怖(オソレ)あることなし、全き愛は恐怖を除く(ヨハネ第1書4‐18)
●一切の仕事が、神を離れては困難であり、神と共にあれば一切が可能である(ヒルティ)

日本の裁判制度は「三審制」で、とても時間を要する事は皆さんもご存知の事です。
一方で、米国の「陪審員制度」は基本的には一審で判決が確定すると聞いています。

最近、日本では司法改革の一貫で、司法の民主化を目指す方策として市民が判決に関与できる「裁判員制」を来年にも法制化しようという動きがあるとも聞きます。

何故、米国では一審のみの陪審員制度が主流なのでしょうか?果たして日本では米国に似たような市民参加の裁判制度が可能でしょうか?

私には疑問があります。何故なら、裁判の【根本精神】が異なっているように感じるからです。

日本の裁判制度が慎重な「三審制」でしかも時間を要するのは【人知・人力】で判決を下そうとしているからだと思うのです。

詳しくは知りませんが、日本の法廷内での宣誓は「自分の良心」に誓わせますが、一方で、米国では【聖書】に手を載せて【神の名の下】に誓わせている光景を目にします。この些細な儀礼のようでも、私には【根本精神】の違いを感じるのです。

つまり、米国の法廷とは【正義=神の愛】に【見守(知)られる】神聖な教会なのです!
だから、陪審員も誠実に【霊性:魂[勇気]・善意・良心】に従って勇気を持って判決を下せると私は理解します。

「もし間違ったらどうしよう?」「人の将来を決めるのは怖い…」などの不安が心に起きても、心のどこかに【安心感】があるはずです。たとえ冤罪でも偽証でも【神の愛】が見守っているので、最後には【神の正義】が審判してくれるからです。

一方で、日本の裁判官も裁判員も弁護士も検事も、法廷内で判決に関わる人々は、人間の叡智をはるかに超えた、不可能を可能にする【神愛の奇蹟】でも起こせる【神の愛=正義】に暖かく【見守(知)られている】実感はありません。

自分の判断のみで決断するなら、法廷は冷たい苛酷な場所であり、そこでの判決は【苦悩の選択】だと思えます。

米国では人間の判断である裁判所の【一審】を回避できたとしても、次には【神の愛】の下で宣誓した【良心】という厳しい【心の裁判官】が待っているのです。

●【良心】とは人間の行いの善悪を判断し、善を命じ、悪を禁じ、善をほめ、悪を戒める神よりの心の声である。人間は心の中に刻まれた法を持っており、それに従うことが人間の尊厳であり、また、人間はそれによってさばかれる。【良心】は人間の最奥であり、聖所であって、そこでは、人間はただひとり神と共にあり、神の声が人間の深奥で響く
カトリック要理:ロマ書2-15~16)
●神が命じ人が神に応える所に【良心】がある。【良心】は人の神覚である、人を離れて人が独り神と相対して立つ時に【良心】がある。(内村鑑三
●道徳は人の道であり、【良心】は神の生命である。(内村鑑三
●あらゆる恐怖は同時に、我々の内部に何か正しくないものがあるという証拠だ(ヒルティ)

そして、自己の【良心】をだませたとしても、最後には【神の愛=正義】の審判が待っています。米国は【神の愛】による【三審制】ともいえるのではないでしょうか。

●自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。復讐するは我(神)にあり(ロマ書12-19)
●神は誠にあなどるべき者にあらず。人は自分の蒔いた物を刈取ることになる(ガラテヤ書6‐7)

★★【その2】につづく★★