【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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【神愛福音道】【聖書価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】 【<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>創世道】

【神の愛の方程式=摂理】①

◇◇映画ストーリーに学ぶ【神の愛の方程式=摂理】(その1)◇◇ <改訂版・再掲載>
【2005年7月19日に作成した<第381回>に加筆】
★「いつも心に太陽を」(1967年:主演シドニーポワチエ、製作・監督・脚本ジェームス・グラヴェル
★「カッコーの巣の上で」(1975年:主演ジャック・ニコルソン、製作マイケル・ダグラス、監督ミロス・フォアマン

【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さんこんにちは!ご愛読に感謝します!

日本では「学園ドラマ」がTVでも映画でも絶えず製作されています。「学園ドラマ」は社会の縮図として社会への問題提起や主義主張を表現しやすい設定・環境だからだと思います。

最近、我が家のビデオ・デッキの故障のおかげで、10年以上前にTVで録画した映画のテープがみつかって、なつかしく思って観る機会がありました。それは「いつも心に太陽を」「カッコーの巣の上で」という映画です。

皆さんの多くの方も既にご覧になったかもしれませんが、久々に見直してみると、【新たな発見】がありました。
表面的にはテーマが異なるようですが、二つの作品には共通して【神の愛の方程式=摂理】があったのです!

「いつも心に太陽」は、黒人のンシドニー・ポワチエ扮する臨時教員が英国の公立中学校の「落ちこぼれクラス」の生徒と共に成長して行くという代表的なヒューマン・ドラマといえるでしょう。

同じような作品は欧米だけでなく、日本、アジア、イラン、インドでも製作され続けていて、古典的ストーリーです。
主人公の臨時教員は、あくまでも「腰かけ」のつもりで、自分には教員の【適性】があることすら気づいていません。
生徒は家庭問題を抱えた不良ばかりで、【信・望・愛】の欠乏ゆえに、社会不信・自己不信から短絡的な非行へと走ってしまうのです。

学校からも見捨てられた「落ちこぼれ生徒」と教師の世界では未熟で非常識な新米先生との葛藤と愛と友情の人間ドラマならば、わざわざ、この映画を観るまでもなく、現在にもありがちなストーリーですね。

ところで、この種のストーリーで、改めて気づかせてくれた【新たな発見】とは、【神の愛の視点】なのです。こういった悪ぶる教室の中にも、心の奥では密かに「自分を変えたい!」という【ビジョン:理想・夢・志】を抱いている生徒が、たった一人でも、必ずいる!ということが、【神の愛=主イエス】から観た時の最大テーマいえるでしょう。

たった一人の生徒が意識を変えることで、教室全体までも改善されて行くという考え方こそ【神の愛の方程式】です!
しかも、教師も生徒自身も、そのような変化を最初から予測できなかったことが【神の愛の奇蹟】ともいえるのです。

目前の個人の【霊性:魂〈勇気〉・善意・良心】を救うことこそ、改善させることこそ、組織・社会改革も自由解放も世界平和をも実現させるにも、【神の愛の方程式=摂理】においては、【最善の道】である事を気づかせてくれたのです。

●目の前の一人を救える者が世界をも救える(ユダヤの格言)
●これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい(マタイ伝18‐10)

以前にも、メルマガで紹介したように【新約聖書】の【ルカ福音書】と【使徒行伝】はルカが作者だと言われていますが、ルカは、たった一人の(歴史的には無名のローマの役人)テオピロに向けての書簡として記述されていることに通じます。

2000年後の私たちまでも、世界の果てまでも、全人類に感動と愛と勇気と励ましと慰めと希望とを与え続けている【ルカ福音書】と【使徒行伝】が、当初は目前のたった一人の名も無き異邦人を救い出すことから始まっったのです!

●まちがいなく最も手近な義務だと認められることを常に行ない、それから先のことは静かに待っていること。そのような人に宿っている真理な霊は必要に応じて何でもその人に思い起こさせてくれる。だから、その人は前もっていろいろのことを熟考したり、心にとめておくことはいらない(ヒルティ)
●どんな大きな仕事であっても、それを細かに分けて、いつも手近なものだけを眼中に置くならば、それは小さな仕事をするのと同じになる(ヒルティ)
●大事業の端緒はまず目前の義務を果たすことなり(内村鑑三

同時に、自分本来の【タレント:個性・才能・可能性】を最善発揮できる【ミッション:使命・天職】を自覚発見する為には多くの場合は世間的常識や自己都合とは、かけ離れた、思いがけない【チャンス=神の愛の導き】が必要だということです。

映画の主人公の臨時教員は、当初は普通の教師の発想と同じように、とりあえず生徒全員を静かに着席させて教科書と授業に従うようにと懸命になります。勉強が出来ないままで社会に出ては苦労することを考えて、善かれと思ってのことでした。
しかし、人間不信で自暴自棄になっている生徒たちには通用しません。

この映画の興味深いことは、主人公の臨時教員が挫折して苦労の末に本来の【教育の目的】について目覚めることなのです。
語学力や計算能力や知識ではなく、先ず誇りと自尊心を取り戻させることで、目の前の生徒を生まれ変わらせる事であると自らが黒人として苦労した社会経験によって気づき、自己の本当の【ミッション:使命・天職】に目覚めたのです!ハレルヤ!

●【天職】を発見するの法は今日目前の義務を忠実に守ることであります。さすれば、神は段々と我等各自を神の定め給いし【天職】に導き給います。要するに【天職】はこれに従事するまでは発見することのできるものではありません(内村鑑三
●自分の仕事を知り、それを為せ。我々の大事な務めは遠くのほうにおぼろげにあるものを眺めていることではなくて手元にあってはっきりしている事を行なうことである(カーライル)
●すべて汝の手に堪えることは力を尽くしてこれを為せ(伝道の書9-10)

つまり、【神の愛】から観れば、社会経験があるならば誰でも【教育者】になれる資格もあり、権利もあり、責任すらあるのです!

●あなた方も、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となってイエス・キリストにより、神に喜ばれる霊のいけにえを、献げなさい(ペテロ前書2-5)
●あなた方は選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって暗闇から驚くべき御光へと招き入れてくださった方の力ある御業を、あなた方が広く語り伝えるためである(ペテロ前書2-9)

ドラマの生徒は、現代社会を構成している「私たち自身」でもあります。現実生活に流されたり、多忙で忙殺されてしまって、いつのまにか自分本来を見失う時もあります。「自分を変えたい!」「もっと生きがいが欲しい!」「このままじゃいけない!」と心の奥で密かに思うことでも、さらに前向きに本来の自分が信じ愛し望む【ビジョン:理想・夢・志】を抱き続けているならば、世間は知らずとも、【神の愛】は必ず見守り、聞き届けてくれるのです!必ずや【神助・チャンス】が訪れることを信じましょう!

●【神助】(内村鑑三
◆神を信ぜよ、さらば神は汝の必要に応じてすべての善き物をもって 汝を恵まん。
⇔ ★天来の思想
★外来の友人
★意(オモ)わほざる汝に臨む全ての恩恵の手段(テダテ)
◆汝の目下の境遇をもって汝の力を量るなかれ。汝は信仰をもって神の力を汝の力となすをうべし。
●我々は神の命じ給う道を歩いていれば日々その務めと力とが自ずから与えられる。特にそれを得ようと思い煩うことはいらない。ただ、それを受け入れて実行すれば善い(ヒルティ)
●なおも神の御手と御心にさからわず
 勇気と希望を少しも捨てぬ。
 私は静かに耐え真っ直ぐに前進する(ミルトン)
●神の側に立とうと決心するが良い。次にはあなたの力と個性に合わせてあなたに個人的に下される神の命令に従え(ヒルティ)
●あなたにゆだねられている尊いものを私たちの内に宿っている聖霊によって守りなさい(テモテ後書1‐14)

★★【その2】につづく★★