◇◇ 自分の【タレント:個性・才能・可能性】を最善発揮する道(その1)◇◇<改訂版・再掲載>
【2002年8月8日に作成した<第266回>に加筆】
2002年8月1日(木)深夜BS・NHK映画「終身犯(1961年)」
8月4日(日)深夜NHK「しゃべり場(再放送)」を観て
●個人とは個々の霊魂(たましい)である。
英語では【individual】分かつべからざるものの意である
●個人は分かつべからざる者で、人そのままである。神の子、永久の存在者、自由独立、不滅の固有性を有し全世界を代価に払うても贖(アガナ)う事のできないほど貴いものである(内村鑑三)
【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さん、こんにちは!ご愛読に感謝します!
10代の若者が集まって彼等が思い悩む問題について議論する「しゃべり場」で興味深い問題提起がありました。留学生として日本に在住する中国人高校生は
「日本にいると自分の個性を眠らされるような強い外圧を感じる。
日本にいると自分の個性が失われて行くような不安さえ感じる。
自分に正直に本来の自分のあるべき姿を目指し、
ホンネで語ることを日本人の多くは避けているのではないか?」
というような内容でした。
中国人留学生が恐れを感じたのは「世間体」という概念ではないでしょうか。
どんな対象にも「普通の~」という価値観が強く存在しているからだと思います。
私も含めて、「普通の~なら」「世間一般には~」とかを無意識に使いがちです。
そして、この「普通の~」という世間体の価値観は、少しでも「ユニーク」なものを「(普通と)変わっている」として周囲が敬遠し排除しがちです。
さらに面白いことは、たとえ「変わり者」でもイチローや画家山下清のように社会的に【この世の勢力:富・権威・名声】を得て、成功しさえすれば「個性ある人」として高く評価されるのです。
ところで、厳密に言うならば、「普通の子」や「普通の家庭」「普通の生活」というのは実際に存在しないといえるでしょう。
つまり、深く考え理解するのを避けたいために、使いがちな便利な方便といえます。
それは目の前の対象に対して無関心であることの証明かもしれません。
どんな対象・事柄でも好奇心や深い関心や愛情をもって観るならば、間違い無く<この世の全て>は特別なる興味深い≪ユニークな存在≫であるからです。
「個性を発揮」するとは【オンリー・ワン】を目指すことにつながると思います。
それは、単に流行に合わせないとか、外見で周囲との「違い」を表現する事ではないと思います。
他人と比較して自分の存在意義を確認することも重要ですが、他人・世間と比較しなくても個性を磨き【オンリー・ワン】を目指す道があります。
【イエスの生涯と教え:最善理想】に見習い、自己の【ビジョン:理想・夢・志】に【ミッション:使命・天職】を発見する道です。
【神の愛=主イエス】が私たちに託した【ミッション:使命・天職】を発見すれば、同時に【タレント:個性・才能・可能性】を最善発揮させることであり、私だからできる!私の替りがない≪ユニーク&オリジナルな生き様≫であって、世間の評価や他人を意識することも、世間体や世間的常識を必要以上に心配したり恐れることもなくなります。
【ミッション:使命・天職】を発見するには、肉親や世間との関わりだけで自覚するのは危険であるといえるでしょう。
何故なら、【主イエス】にしても母マリアと大工の父ヨセフの教えと生まれ故郷の人々だけでは、≪救世主≫という自身の【ミッション:使命・天職】を確信することはできなかったからです。それどころか【主イエス】の身内の人々は最後まで誰も理解できませんでした。
皆さんもご存知のように、【主イエス】が自分自身の【ミッション:使命・天職】を発見できたのは【聖書:旧約の預言】からです。
【聖書の御言葉】は≪自分発見≫に導く【神の愛の無限のパワー】だと体感します!ハレルヤ!
●神の国は言葉でなく力である(コリント前書4‐20)
●これまでに書かれた事柄は、すべて私たちの教えのために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰め・勇気が、望みを抱かせるためである (ロマ書15‐4)
●あなた方が私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなた方と共にいますであろう (ピリピ書4‐9)
我らの≪主人・師≫である【主イエス】自身でもそうであったのですから、なおさら私たち≪僕・弟子≫が【ミッション:使命・天職】を発見したければ、先ずは【聖書・イエスの生涯と教え】に注目することこそが有効だと思います。
●僕が主人よりも偉く、弟子がその師に立ち優ることはない(マタイ伝10‐24、ヨハネ伝13‐16・15‐20、ルカ伝6‐40)
【イエスの生涯と教え・聖書の御言葉】によって【ミッション:使命・天職】に導かれるとは、具体的にはどういうことなのでしょうか。
私は実体験から次のように感じます。
こんな意気地なしの臆病者で無知無能な私自身でも、何の社会的地位もない無名な立場であっても、私の心に抱く大いなる【ビジョン:理想・夢・志】を目指す事を【神の愛=主イエス】は許され望まれているに違いない!という【神の愛=主イエス】による≪許しと導き≫の実感です。
●ひとが本当に神を信じ、それが単に口先だけのことでないなら、唯物論的世界秩序においては、ただ不可能としか思えない多くの事が当然のことになってくる(ヒルティ)
●不可能を口にしないのは万事が自分にとり可能であり、許されていると考えるからである(トマス・ア・ケンピス)
●愛は万事に対する能力をもち、愛しないものならば、力尽きて倒れる場合にも多くの事を成し遂げ功を奏させる(トマス・ア・ケンピス)
●イエスに対する【貴い愛】は人を促して大きな仕事をなしとげさせ、人を励ましいつもいっそう完全な徳を望むように仕向けさせる。愛は常に向上を欲していかなる、いと低い事物によっても引き停められることを望まない(トマス・ア・ケンピス)
たとえ、家族や世間的には「無理だ!不可能だ!止めとけ!」と非難されたり、無理解の反応があろうとも、そして時には、目前の厳しい困難にめげて、自分勝手な自己都合で、あきらめようとしても、【神の愛=主イエス】だけは私たちの進むべき道をご存知です。
「あきらめずに、やり続けなさい!」それは間違った道から私たちを救ってくれる【神の愛=聖霊】が私たちの心に語りかけ、具体的に【神の愛の奇蹟】を起こしてくれます。
●人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか(箴言20‐24)
●人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れても真逆さまに倒されはしない。主がその手を支えておられるからだ(詩篇23‐24)
●主は人の一歩一歩を定め、主は御旨にかなう道を備え、その行く道を喜ばれる(詩篇37-23)
●人は心に自分の道を計画を思い巡らす。 しかし、その人の歩みを一歩一歩備え確かなものにするのは主である(箴言16-9)
●人の道は主の目の前にあり、主は、その道筋のすべてに心を配って、その行いを見守られる(箴言5-21)
私たちは自分が思う以上の可能性と社会的必要性を備えているのです。自分自身の経験と知識と生い立ち・境遇では計り知れない【自分らしさ・オリジナリティ】が各自にあることを自覚するには、日常の先入観や固定観念をはるかに超えた世界に触れる必要があります。
それが【神の愛】が具体的に示されている【聖書の御言葉・イエスの生涯と教え】です!
●御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです(テモテ後書4-2)
●願わくは、あなたの僕への御言葉を思い出し給え。あなたは私がその御言葉を待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め、まことに御言葉は私を生かします(詩篇119-49~50)
●どのようにして若者は自分の道を歩む道を清く保つことができるでしょうか。御言葉に従って道を保つことです(詩篇119-9)
★★【その2】につづく★★