◇◇【四福音書】⇔【キリスト信仰】の<四大主義>に学ぶ(その1)◇◇
【2002年1月22日に作成した<第212回>に加筆】
【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さん、こんにちは!ご愛読に感謝します!
【新約聖書】は【イエスの生涯と教え】を【四福音書】の<四方面>から具体的に描いて
くれました。
内村鑑三の解釈を簡単に改めて紹介します。(メルマガ第14回・2000年11月18日)
■マタイ伝 ⇔ ユダヤ人からみたイエス=道徳 ~メシア(救世主)としてのイエス
⇔ 神の国の王
■マルコ伝 ⇔ ローマ人からみたイエス=能力 ~公的精神の完全なる実現者
⇔ 主の僕 *行動的 記述の特徴「~するとすぐ・・・」
■ルカ伝 ⇔ ギリシャ人からみたイエス=恩恵 ~情の人、美の人、人道の人
⇔ (ギリシャ人にとって)理想的な人
■ヨハネ伝 ⇔ 人類的のイエス=本姓 ~時間空間を超えた絶大なる宇宙的哲学観
⇔ 全人類的な神の子イエス
いつでもどこでも【新約聖書】に無限大の【神の愛のパワー】を発見し体感できるのは
【イエスの生涯と教え】について≪四方面≫から示した四つの【福音書】があるからだと
思います。
【四福音書】のおかげで、どんな生い立ちや境遇にあろうと世界中のどんな人種民族でも、
多種多様の文化風習でも、または人生のあらゆる段階で老若男女全ての個人が、いつでも、
どこでも【四福音書】を<自由>に心に受入れる事が可能となったのだと思います。
【四福音書】は【福音】に触れ、読み、見聞ききした全ての人が、【神の愛=主イエス】を
信じ望み愛し理解できるようにと、受入れやすい≪きっかけ≫を示してくれているからだと
思います。
それは、【新約聖書】の【使徒行伝】や【書簡集】にも通じているのだといえるでしょう。
●四大使徒の信仰(内村鑑三)
★ヤコブの信仰は律法の信仰
★ペテロの信仰は訓練の信仰
★パウロの信仰は信仰の信仰
★ヨハネの信仰は愛の信仰
現代的に【四福音書】を解釈するならば、
■マタイ伝 = ヤコブの律法主義 = ≪結果重視≫の見方・考え方
■マルコ伝 = ペテロの訓練主義 = ≪プロセス重視≫の見方・考え方
■ルカ伝 = パウロの信仰主義 = ≪心意気(人格)重視≫の見方・考え方
■ヨハネ伝 = ヨハネの神愛主義 = ≪ビジョン〔意思と計画〕重視≫の見方・考え方
この≪四方面≫の見方・考え方で評価すれば、どんな人物や物事でも理解できて、正確に
判断できるのではないでしょうか。
【主イエス】を含めて歴史的偉人についても、様々な視点から伝記や評伝が登場しますが、
【聖書】の【四福音書】のように<多面的>に著された人物評はほとんどないと思います。
私たちの個人的な<生き様>にしても、<事業の在り方><国家民族の歴史>にしても、
同じように【聖書】の≪四方面の見方・考え方≫が役立つと思います。
そして、【神の愛=主イエス】が我々に最も期待し望み愛する事とは何でしょうか?
それは正しい≪結果(完全な善行)≫よりも≪プロセス(何度でもやり直す努力)≫であり、
≪プロセス≫よりも≪心意気(人格:信じ望み愛する心)≫、そして≪心意気≫よりも
≪【ビジョン:理想・夢・志】〔意思と計画〕≫を持つことを、最も望むのだと思います。
たとえ、肉体的・経済的・社会的に不自由になろうと、<牢獄>のような場所に幽閉され
閉じ込められ物理的に不自由になった時でも、また世間から遠ざけられて孤立した時でも、
言論や行動が弾圧され迫害されても、それでも私たちに<できる事>が残されています!
それが【霊性:魂[勇気]・善意・良心】に従った【ビジョン:理想・夢・志】に基づく
【意思と計画】を心に抱き、<最愛の我が子・我が分身>として守り育てることです。
どんなに外的に自由を奪われ孤立され迫害・拷問されても、個人に最後の最後まで守られ、
【神の愛=主イエス】が与えてくれた、<真の自由>とは【ビジョン:理想・夢・志】を
抱き【意思と計画】として描けるという【精神的自由】なのではないでしょうか。
●自由を得させるためにキリストは私たちを解放して下さったのである(ガラリヤ書5-1)
●主は霊である。主の霊のあるところに自由がある(コリント後書3‐17)
●真理はあなた方を自由にさせる(ヨハネ伝8‐32)
●【真の自由(内村鑑三)】
◆真の自由は発意である ⇔ Unconditional(無境遇)
◆真の自由は正しき選択である ⇔ 霊性本来の標準に従う~霊的生命達成の道
◆真の自由は善き意志を行う能力である
★真の自由は消極的状態でなく積極的状態である。
何事をも為しうる状態又能力でなく,ある事を為さずしてある他のことを為す能力
⇔善悪を判別して悪を避けて善を行う能力
★自由とは理想にあらず、境遇にあらず、能力である
★I can do that which is right.(我は正しき事を為し能う)
【ビジョン:理想・夢・志〔意思と計画〕】は過去から現在に、現在から未来に、人から
人に、事業から事業へと受け継ぐことができる素晴らしい【御言葉】【福音の勢力】です!
【ビジョン:理想・夢・志】は<自己>も【隣人・社会】も感動と歓喜で光輝かせてくれ
勇気や励ましや慰めや希望を与えてくれる【神の愛】の【賜物:無償ギフト・神恵】です!
心に抱く【ビジョン:理想・夢・志〔意志と計画〕】は【神の愛=知恵】であることを
素直に受け入れて、未完・未実現でも具体的実践がなくても、目に見える存在でなくても、
先ずは<最愛の我が子・我が分身>として大切に信愛する事が【神の愛=主イエス】から
託された【御言葉】【福音の勢力】に生きる【愛と自由の戦士・神の僕】の根本精神だと
思います。
●あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では
言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています(ペテロ前書1-8)
●それでもひたすら神に信頼し続けよ。そうすれば、まもなく、また光と力を見るだろう。
おまえが信じたものを、まのあたりに見て、信じたとおりに成るであろう(バンヤン)
●私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いて下さる
(ミカ伝7-7)
●知恵を愛する者は、命を愛する者。朝早く起きて知恵を求める者は、喜びに満たされる
(シラ書〔集会の書〕4-12)
●ついには、知恵に憩いを見いだし、知恵は、お前にとって、喜びに変わるだろう
(シラ書〔集会の書〕6-28)
●私たちは見えるものでなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的にして、
見えないものは永遠に続く(コリント後書4-17)
●目に見える望みは望みではない。何故なら、現に見ていることに、どうして、
なお望む人があろうか。もし、私たちが見えないことを望むなら、私たちは忍耐して、
それを待ち望むのである(ロマ書8-24~25)
●信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである
(ヘブル書11‐1)
●私たちは見えるものによらないで、信仰によって歩いている(コリント後書5-7)
●信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造されたのであり、
従って見えるものは、目に見えているものからで成されたのではないことを
悟るためである(ヘブル書11-3)
●信仰は人によっては迷信のごとくに見える。信仰は確かに一種の冒険である。
これに従って、あるいは失敗におわるかもしれない。
しかしながら、信ずる者は信仰の迷信でないことを知る(内村鑑三)
●失望は不信なり、信仰は無限の希望を意味す(内村鑑三)
★★【その2】につづく★★