【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

★AMEN!HALLELUJAH!THANKS JESUS LOVE!★AMEN!HALLELUJAH!GLORY JESUS KINGDOM!★Good luck & God bless you!

【神愛福音道】【聖書価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】 【<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>創世道】

<キリスト熱愛者>に導く【神の愛】!

●<四福音書>(内村鑑三

エスアブラハムの裔(こ)なるダビデの裔、

すなわちユダヤ人の王として見たるものがマタイ伝である。
[アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト系図(マタイ伝1-1)]

彼を権能の実現、すなわちローマ人の理想として見たるものがマルコ伝である。

彼を神の子なるアダムの子、すなわち人類の王として見たるものがルカ伝である。
[エノシュ、セト、アダム。そして神に至る(ルカ伝3-38)]

しかして終わりに彼を言すなわち宇宙の真理として見たるものがヨハネ伝である。
[初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった(ヨハネ伝1-1)]

ローマ天主教会はマタイ伝をもって起こり、
[あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる(マタイ伝16-18)]

ペテロの福音なるマルコ伝をもって維持せらる。

新教諸教会はパウロの福音なるルカ伝をもって起こった。

しかして今や無教会または新教会はヨハネ伝をもって起こりつつある。

ヨハネ伝は確かに第二十世紀以後の福音である。

この書の理想の実現せらるる時に、ローマ教会もなければ新教諸教会もない。

その時、神は教義をもって伝えられずして愛をもって示され、

愛なき者は、神を知らずと言われて不信者と認められ、

神を愛する者はまたその兄弟をも愛すべしと唱えられて、

人を愛する者のみ信者として受けらるるに至るのである。

★★★

ユダヤ教徒の<割礼>もキリスト教会制度の<洗礼>を受けていなくても、この世の<万事万物>の本源である【神の愛=主イエス】は、私たちが【神の愛=隣人愛】に目覚めて、【神の愛=隣人愛】を求めるなら、教会や教義の<信者>というよりも、【神の愛=主イエス】の【熱愛者】として、私たちを招いてくれます!

●真理は教会よりも大なり(内村鑑三
●神は何らかの教会制度や、さらにある一定の学問の中に限られてはいない。
 そのようなものがなくとも、神は自らを知らしめ給う(ヒルティ)
●教理を知らないでもクリスチャンである者が少なくない。
 キリスト教は証明せらるべき教義ではなくて、生活さるべき一つの生命である
 (ヘンリー・ドラモンド)
●キリストは教会の救い主にあらずして、世界の救い主なり。
 彼は今や狭き教会を去って広き世界に偏在したまう。
キリストの教会は世界にして、会員は人類なり(内村鑑三

たとえ<割礼><洗礼>のように[宗教教義・教会制度]に基づいた<烙印>がなくても、一切の心配御無用です!

私自身もそうですが、今日現在<教会の外>にある立場なら、【信仰の祖アブラハム】と同じように、【神の愛=主イエス】への<熱愛・純愛>が喜ばれて、<相思相愛の関係>で結ばれるように【神の愛=主イエス】から直接に<烙印:召命>してもらいましょう!

●割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか(ロマ書2-26)
●内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、
 文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。
 その誉れは人からではなく、神から来るのです(ロマ書2-29)
●実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、
 割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです(ロマ書3-30)
●では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。
 それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。
 「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。
 それとも、割礼を受ける前ですか。
 割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、
 割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに
 信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました(ロマ書4-9~11))
●割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。
 割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです
(コリント前書7-18~19)

皆さんの【霊性:魂[勇気]・善意・良心】に宿る【神の愛=隣人愛】に【神の愛=主イエス】を体感して、心に抱く【ビジョン:理想・夢・志】に【ミッション:使命・天職】を発見して、【神の愛=主イエス】と<相思相愛の関係>で生きる【愛と自由の戦士・神の僕】として活躍される事を心より応援しています!

●先ず大切なのは信じようとする意志である。そこからして信仰は始まる。その意志があれば、信仰はたやすく、おのずから成長する。さもなければ、信仰を見出しがたく、また、ほとんど教えることもできない(ヒルティ)
●人の生涯は、いつか突然、単純な信仰の境地が訪れて、神への愛がなければ、
 どんな信仰も、また神の意志についてのどんな歴史的な、あるいは教養的な知識も、
 魂の向上に役立たないことがわかり、反対に、心のなかに神への愛があれば、
 一切が明らかになり、やさしく、簡単になる、ということを示される。
 我々はこのような境地に達しなければならない。そうなれば、
 我々は全ての哲学書や神学書を閉じてよろしいし、またそうしたくなる(ヒルティ)
●ただ偉大な理念の召使と考えるようになったら、その人はすでに確実な頂きに達したといえる。聖書は、これを「神のしもべ」と呼んでいる(ヒルティ)
●これら一切のものの上に、愛を加えなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯である
 (コロサイ書3-14)
●我等は神に造られたる者にして、神のあらかじめ備え給いし善き業に歩むべく、キリスト・イエスの中に造られたるなり(エペソ書2‐10)
●あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、
 言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています(ペテロ前書1-8)

それでは今日も明日も素晴らしい人生をお過ごし下さい。
May grace and peace be with your spirit.
Good luck & God bless you!