【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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【神愛福音道】【聖書価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】 【<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>創世道】

<愛の方程式>で導く【神の愛】!①

◇◇望み得ない<不可能:希望>を<可能:確信>に導く【愛の方程式】!(その1)◇◇
【2008年2月24日に作成した<第451回>に加筆】
★★映画『天国の青い蝶』(原題:THE BLUE BUTTERFLY)と
 「カナンの女の信仰(マタイ伝15‐21~28、マルコ伝7-24~30)」について★★

●できる、できない。思った方が実現化される(フォード)

【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さん、こんにちは!ご愛読に感謝します!

先日のTV番組で映画『天国の青い蝶』が放映されたのを観て感動と勇気を与えられました。
皆さんもご存知と思いますが、この映画作品は<実話>に基づいており、映画製作者たちは、
素晴らしい【奇蹟】を通じて、「夢は実現する!」ことを、夢をみている世界の子供たちと、
夢をあきらめかけている大人に伝えたい!という熱意によって取り組んだといわれています。

●ほとんどの人が、自分自身の視野の限界を世界の限界だと思い込んでいる。 
 だが、何人かはそうではない。彼らの仲間入りをしなさい(ショーペンハウエル

昆虫が大好きな11歳の少年(実話は9歳)が医者に余命数ヶ月と宣告されてしまうほどの
人生最悪の絶望的な<どん底>に追い込まれます。

少年は世界で美しく神秘的な「青い蝶」を採集する事が人生の最後に残された【夢】でした。
そこで少年が憧れ尊敬する昆虫学者に会って昆虫学者に「青い蝶」が生息するジャングルに
連れて行ってもらうことを頼みに行きました。

この世界的に有名な昆虫学者も、少年時代からの【ビジョン:理想・夢・志】を実現させて
昆虫学者になった人物で、少年の気持ちを理解しますが、残念ながら採集の時期でない事を
理由に断ります。それでも母親が執拗に頼み込み、少年本人も命がけであることを知ります。

昆虫学者は歩く事すらできなくなっている車椅子の少年と共にジャングルに出かけるのです。

このエピソードは【ビジョン:理想・夢・志】実現に導く<愛の方程式>が示されています。
<愛の方程式>は<不屈の楽天主義・楽観論>の【パッション:受難覚悟の情熱・熱望・気迫】が
前提条件です。

【聖書】に示される「カナンの女の信仰(マタイ伝15‐21~28、マルコ伝7-24~30)」には、
どんな<不可能:希望>でも<可能:確信>に導かれるちう<愛の方程式>が示されていて
【神の愛=主イエス】は<愛の方程式>で私たちを愛され喜ばれることが証明されています!

【聖書】が示すカナンの女は異教徒であるにもかかわらず【主イエス】に救いを求めました。
何故なら彼女の幼い愛娘が悪霊にとりつかれて人間として<最悪の状況>にあったからです。

彼らの立場を考えるならば経済的・肉体的・精神的・社会的にももはや望んでも得られない
恐るべき【患難辛苦】であり、この世では<解決不可能>な絶望的状況といえるでしょう。

私を含め恐らく世間の多くの人なら絶望的になっていたでしょうが、この母親は違いました。

異教徒で本当の<神様>を知らずとも、我が子への【貴き愛】ゆえに決してあきらめるずに、
捜し求め続け、ついに【主イエス】の評判を聞いて、出遭えるという<絶好のチャンス>を
獲得できたのです!

●神は行動しないものには決して手をさしのべない(ソフォクレス
●大きなチャンスの到来を待っていてはいけません。ごく平凡な機会をとらえ、
 それを大きなチャンスに変えていきなさい(オグ・マンディーノ
●好運に出合わない人間など一人もいない。それをとらえなかった、というまでだ
(D・カーネギー

<人生最悪のどん底>で【神の愛=主イエス】に出遭える!ことが<愛の方程式>ですね。

●何事につけても、希望するのは絶望するのよりよい。可能なものの限界をはかることは、
 だれにもできないのだから(ゲーテ

【聖書】が示す興味深い事は<チャンス>に出遭えた瞬間が最も危険な瞬間でもあるのです。
カナンの女が「<この方>しかない!」とすがるように【主イエス】に助けを求めますが、
【主イエス】の最初の反応は予想外の「沈黙・無視」でした。

●汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその
 足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から
 悪霊を追い出してくださいと頼んだ(マルコ伝7-25~26)
●「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」
 と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった(マタイ伝15-22~23)

さらに追い討ちをかけるように弟子たちが、娘を助けたい!一心の哀れな無力な母親なのに
<迷惑な存在>として扱われてしまいます。こんな仕打ちを受けて耐えられるでしょうか?

●弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて
 来ますので。」(マタイ伝15-23)

この背景には【聖書の預言】に従った【神の愛=主イエス】としての<人類救済の計画>が
あって<十字架>につくまでは、あくまでもユダヤ民族を救済する立場であったからです。
従って異教徒にとっては<恵み>に救われる時期でないため、あっさりと断られるのです。

●イエスは「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と
 お答えになった(マタイ伝15-24)
●イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。
 子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(マルコ伝7-27)

映画になった<実話>でも、せっかくの<絶好のチャンス>に、同じ反応をされました。
<愛の方程式>も「夜明け前が最も暗くて寒い」といわれる<天然現象>に一致します。

<恵み・祝福>に預かれる<目前の困難>は<愛の方程式>が成立するために不可欠な
【神の愛=主イエス】による【試練:オーディション&リハーサル】だと実感します。

●患難は恩恵と離れて考えるべきでない。それは、患難は恩恵の一部なればなり。
 塩味を和せずして甘味は甘味ならず、患難なくして恩恵は恩恵ならず、
 食に薬味の必要なるがごとくに人生に患難は必要なり。
 患難ありて始めて人生に香味は生ずるなり(内村鑑三
●命は恩寵のうちにある、夕暮れに涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある(詩篇30‐5)
●試練と祝福は密接に関連している(ヒルティ) 
●患難のための恩恵にあらず、恩恵のための患難なり。患難は手段にして恩恵は目的なり(内村鑑三
●困難は人の真価を証明する機会なり(エピクテータス)
●心配の始まりは信仰の終わりであり、真の信仰の始まる時は、心配の終わる時である
(ジョ-ジ・ミュ-ラ-)
●誰かに向かって「それは不可能だ」などと言ってはいけない。神はその不可能な事を
 やってしまうほど無知な者をずっと待ち続けているのかもしれないのだから
(ジョン・アンドリュー・ホームズ)

★★【その2】につづく★★