◇◇【神の愛=隣人愛】による<迷える子羊>救出作戦!(その!)◇◇<改訂版・再掲載>
【2002年5月23日に作成した<第249回>に加筆】
◆迷える子羊(マタイ伝18‐10~14、ルカ伝15‐3~7)
●あなた方に内に、百匹の羊を持っている者がいたとする。
その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいていなくなった一匹を
見つけるまで捜し歩かないだろうか(ルカ伝15‐4)
●これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい(マタイ伝18‐10)
●これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない
(マタイ伝18‐14)
【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さん、こんにちは!ご愛読に感謝します!
【主イエス】は自らを【善き羊飼い:救世主】にたとえ、私たち人間を「子羊」にたとえて
様々な教えを説いてくれました。
この「たとえ」についてテレビ伝道の奥山牧師は解りやすい説明をしてくれました。
多くの動物の中でも、何故「羊」であるかというのは大きな理由があるのです。
羊の大きな<特性>は三つあり、この<特性>こそが【神の愛=主イエス】から離れる
原因となるからだそうです。
【1】耳が遠い
【2】目が悪く近眼
【3】帰巣本能がない
「耳が悪い」とうことは、つまり、「神の声<【神の愛】>」に従わずに、自分勝手に
動き回り、挙句の果てに迷子になってしまうことになります。
「近眼」であることは<目先の現実:この世の利害・損得>にばかり心が奪われやすくて、
遠大な【ビジョン:理想・夢・志】や長期的展望や来世への希望などを抱きにくいことを
示しているといえるでしょう。
「帰巣本能がない」という事は、我々が安全な【エデンの園】から追放されてしまうと、
苛酷な<荒れ野(現実生活)>をさまよううちに、身も心も<迷子>になってしまって、
<自力>では安全な【エデンの園】に立ち帰る事ができず【善き羊飼い;主イエス】に
見つけ出されて、招かれて導かれる事で、ようやく【神の愛=隣人愛】の【神の国】に
立ち帰ることができるという示しといえるでしょう。
●私は善い羊飼いである。善い羊飼いは、羊のために命を捨てる(ヨハネ伝10-11)
●私は羊の門である。私を通って入る者は救われ、また出入りし、
牧草にありつくであろう (ヨハネ伝10‐9)
最近の報道で残酷な動物虐待や家族内の殺傷事件などが多発しているように感じますが、
私たちの社会全体で<愛の冷却>が進んでいるように痛感します。
●多くの人がつまずき、互いに裏切り憎みあい、
多くの偽預言者が起って、多くの人を惑わし、
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう(マタイ伝24‐10~12)
動物虐待者を単なる精神異常者や人生の落伍者や<社会の敵>として見捨てることは、
【神の愛=主イエス】の望みではありません。彼等も<迷える子羊>であるからです。
彼等の多くが世間的には、目立たず<無関心な対象>で孤独であった事が犯行の動機に
なっていることは明らかです。
マザー・テレサは日本を訪れた時に、日本の孤独な人々を見て哀れに感じたと聞きます。
インドの物質的飢餓よりも、愛の欠乏感である<精神的飢餓>の方が解決が困難であり、
よほど辛いことだからです。
●愛の反対は憎しみでなく、無関心である(マザー・テレサ)
ドイツの社会事情に感銘を受けました。例えば学校での銃乱射事件が起きた時のドイツの
TV報道では、犠牲者を追悼するために教会を中心に盛大なミサが行なわれていました。
それ以上に驚いた事は、政府機関の建物の国旗が半旗であったことです。
日本でも、9・11テロ事件の時は半旗であったかもしれませんが、一人の子供が起こした
傷害事件だけで政府が半旗にしている光景が報道されるところを見た記憶がありません。
ドイツ政府は、たった一人の子供が起こした事件を、単なる異常者の事件として
扱っていない証拠です。国民全体で考えるべきで、まさに有事の重要問題として
政府が積極的に先頭に立って取り組んでいる決意表明といえるでしょう。
そして、国旗は権威の象徴として崇め奉る存在ではなくて、国民に身近な存在であり、
全国民が喜びも悲しみも共に分かち合い祈るために<心を一つ思いを一つ>にできる
優しくて強い<国家の象徴>であるように映ります。
●喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい(ロマ書12‐15)
●キリストの名によって、あなた方に勧める。みな語ることを一つにし、お互いの間に
分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合って欲しい
(コリント第1書1-10)
●あなた方に幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、
それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、
思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。(ピリピ書2-1~2)
再び同じような加害者・被害者を産み出さないという固い決意によって、社会に向けて
「君は決して独りじゃないよ!」と<迷える子羊>に語りかけているように感じます。
<小さき弱き者><迷える子羊>に優しい国家・社会・個人ならば、<敬愛する心>を
法律や制度で無理やり強要しなくても自然に愛され尊敬されるものだと実感できます。
まさに【神の愛=隣人愛】とは<実践>そのものである証明ですね。
●正義と公平(公義)を行なうは犠牲(イケニエ)よりも優りて主に喜ばれる(箴言21‐3)
●私たちが考えたり、知っていたり、信じたりすることは、最終的にはそれほど
重要ではない。唯一重要なのは、何を実行するかである(ジョン・ラスキン)
●あなた方が、私から学んだ事、受けた事、聞いた事、見た事はこれを実行しなさい。
そうすれば、平和の神があなた方と共にいますであろう(ピりピ4-9)
●よい精神を持つだけでは十分ではなく、肝心なのは、これをよく用いることである
(デカルト)
●愛というものは、愛されるということよりも、むしろ愛することに存在する
(アリストテレス)
●愛という気持ちは愛という行動の結果に過ぎない(スティーブン・コヴィー)
●愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない(フロム)
★★【その2】につづく★★