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サムエル・フォール卿来日支援基金

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■■■2008年12月に、サムエル・フォール卿来日が無事に実現して、念願の工藤氏の墓参りと「海軍中佐工藤俊作顕彰会」が行われました!■■■


   ◆◇◆詳しくは:http://www.bushido-seishin.com/event/◆◇◆


 ★★★恵隆之介氏の苦境を理解し、支援の手をさしのべてください。★★★

  ■最新の情報は:http://www.bushido-seishin.com/collection/
  ■日英協会も協力しています!:   
     http://www.japanbritishsociety.or.jp/japanese/modules/tinyd0/index.php?id=8

  ◆◆【日本文化チャンネル桜http://www.ch-sakura.jp/topix/497.htmlも参照ください!◆◆

  激しい戦時中に、日本の乗員220名で英国兵421名を救助した!という【武士道精神】と、
  戦後ずっと恩を忘れずに日本の弁護をし続けてくれた【シーマンシップ/キリスト精神】が
  日本と英国の【神の愛=隣人愛】の<架け橋>となっている【感動的秘話】です!


フジテレビ「アンビリバボー」でも取り上げられて反響を呼んだ、戦時中の感動的な「秘話」を発掘してくれた【愛と自由の戦士・神の僕】である惠隆之介氏のために皆さんの御協力をお願い致します!

以下のブログより転載した文章です。
   http://constanze.at.webry.info/200802/article_4.html


恵さんは、沖縄集団自決冤罪訴訟に関して、またその他諸般の保守活動について、なくてはならない重要人物ですが、現在、ご著書を出版されている草思社が倒産し、予定の印税が一切入らなくなったため、大変な苦境に立っておられます。

恵さんはこれまで、すべてのご自身の活動をを自費でまかなってこられました。カンパ活動をされたことはありません。恵様の苦境の原因は「この度不幸にも小著を出版した草思社が倒産し」と書かれているとおりで、その結果入るはずだった印税が1000 万円以上入らなくなり、それを予定して精力的に各種活動を展開されていたため、突然の事態に大変な苦境に立たれているわけですさらに今企画されているサムエル・フォール卿日本招聘は、フォール卿がご高齢である事から一刻を争います。そのためには約2000万円の資金が必要と予測されていま
す。

「サムエル・フォール卿来日支援基金」の口座
何卒ご支援の程御願い申し上げます。
 口座番号
1.郵便局  口座番号 01740-6-135085
        口座名義:サムエル・フォール卿来日支援基金  
 2.銀行   沖縄銀行首里支店
        店番 : 127
        口座番号:1393716
        口座名義:サムエル・フォール卿来日支援基金
               代表者 恵 隆之介     

サムエル・フォール卿(92歳)略歴

元英国政府外交官、第二次大戦中、海軍中尉として英国海軍に従軍、駆逐艦「エンカウンター」砲術士官として1942年3月、ジャワ海に於いて日本海軍と交戦沈没。その後脱出漂流中、日本海軍の駆逐艦「雷」に救助された。

同時に救助された戦友421名と共に、「雷」乗員に手厚い処遇を受けまた艦長工藤俊作中佐から健闘を称えられると共に激励を受けた。
 彼はこの行為に感激し、 戦後この感動を、「日本武士道の実践」と称え、米英両国、さらに東南アジアで講演し、また著作に著した。 彼の努力の結果、戦後我が国への誤解や誹謗が霧散し、日英、日米関係に計り知れない功績を残こすことになった。

 現在、卿は足が不自由で車椅子であるが、頭脳は極めて明晰である。
 本件は、サー・ヒュー・コータッツイ編著 「歴代の駐日英国大使」にも明記絶賛されている。  

皆様の全面的な協力を南木からも是非お願いいたします。

★★サムエルフォールの<エピソード>★★
   http://blogs.yahoo.co.jp/l2l_haijin_l2l/17263874.html を参照ください!

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

フォール卿来日と工藤俊作中佐顕彰記念誌(英語版)出版
支援御願い

小著「敵兵を救助せよ!」およびこれをドラマ化したフジテレビ「アンビリバボー」(「ザ・ラスト・サムライ」昨年4月19日放映)は全国民とくに戦後世代に深い感動を生みました。
国民は工藤艦長の英断に感動しましたが、戦後60余年、片時も工藤艦長の恩を忘れることなく、また世界に向けて工藤艦長を「偉大なる日本人、偉大なる日本帝国海軍」とアピールし続けたフォール卿のゼントルマン・シップにも痛く感動したのであります。
本件は言うまでもなく、戦後とかく誤解されていた我が国の大戦中の行為への誤解を払拭するのに絶大なる効果を発揮したのであります。

フォール卿は現在92歳になられますが、「工藤中佐への墓参と靖国神社におはします駆逐艦『雷』全乗員にお礼を申さねばあの世に行けない」と最期の来日を熱望致しております(「雷」は昭和19年4月19日、米潜水艦の雷撃を受けて轟沈、全員戦死)。

一方フォールご卿夫妻の住居の近くに在住される日本夫人が、小著に感動し、病床にありますフォール卿夫人や老人ホームに転居されておりますフォール卿の世話をボランテイアで致しております。
 このご婦人からの連絡では、英国は日本と違って、元外交官と言へども年金生活は大変質素なもので、胸を打たれるような清貧の生活をなされているようであります。

 英国外務省からは、来日の許可はおりましたが、主治医からは、卿の心臓は悪いが渡航には差し支えない、しかし航空機はフルリクライニングのシートでなければならないとアドバイスを貰いました。
 フルリクライニングのシートはファーストクラスで費用がかかります。
 そこで小生この来日を支援しょうと行動を起こしておりましたが、この度不幸にも小著を出版した草思社が倒産し、またこれまでもこの歴史顕彰活動に私財を投じて来ましたが、資金が回らず大変苦境に立たされております。
ここで是非皆様方の浄財を仰ぎたく恥を忍んでお頼み申し上げる次第であります。
 なお、フォール卿来日、工藤艦長表敬墓参、靖国神社参拝のドキュメント、そして「敵兵を救助せよ!」の要約は英訳してて世界に配信する予定であります。何卒ご支援の程御願い申し上げます。

恵隆之介


★★★

      ■■ 平成17年9月11日(日) 産経新聞 ■■

<戦後60年 人・世相 駆逐艦「雷」敵兵救助 昭和17年>

命懸けの武士道

 八月中旬、横須賀から、海上自衛隊護衛艦「いかづち」が、テロと戦う英海軍などの支援のため、インド洋に到着した。日本海軍の同名の駆逐艦「雷」が、第二次大戦中、英海軍艦艇の乗員四百二十六人を救助したことを知る人は少ない。

 元海自二尉で、日英の関係者に取材した惠隆之介(51)によると、救助はこうして始まった。

 昭和十七年三月、英駆逐艦「エンカウンター」など二隻は「ジャワ沖海戦」から離脱して航海中、日本海軍に撃沈され、乗員約四百六十人は二十四時間、漂流を続けていた。

 多数の救命筏(いかだ)を発見した「雷」は救難活動中の国際信号旗をマストに掲げ、艦長の工藤俊作少佐=当時(41)=は艦を停止するため「後進いっぱい」を下令する。

 前日には同じ海域で日本の輸送船が潜水艦の攻撃で沈没していた。停船さえ危険な状況で、工藤はさらに号令をかけた。

 「(周辺警戒用の)一番砲だけ残し、総員、敵溺者(できしゃ)救助用意」

 「雷」に泳ぎ着いた漂流将兵に艦上から竹ざおを差し出すと、相当数がつかんだはずの手を離し、沈んでいった。日本側水兵は「波の輪が静かに広がっていった。白い軍服の色が目にしみた。ほっとして、力尽きたのだろう」と振り返る。

 惨状を見かねた水兵が独断で飛び込み、英将兵の体にロープを巻いた。下士官が「命令違反だ。飛び込むな」と叫んだが、さらに二人が飛び込んだ。工藤は「重傷者は起重機を使い、網でつり上げろ」と命じた。

 「エンカウンター」の中尉だったサムエル・フォール(86)=後に駐スウェーデン大使=は「日本人は野蛮と聞いていたので、機銃掃射を受けるのではないかと恐怖を覚えた」と、惠に語った。

 二百二十人乗りの「雷」は、その倍の敵将兵を収容した。重油で真っ黒になった捕虜の体を貴重な真水でふき、服や食料を支給した。甲板に日よけの天幕を張ったため、周辺警戒用の一番砲も使えなくなった。

 戦時国際法の専門家で日本赤十字社の井上忠男参事(53)は「大戦中の戦闘海域で、これだけの偉業を完遂したのは世界の海軍史上、稀有(けう)な人道行為」と言い切る。

                 ◆◇◆

 「奇跡。夢ではないかと何度も手をつねった」というフォールら英軍士官に、工藤は流暢(りゅうちょう)な英語でこう話したという。「諸官は勇敢に戦われた。今や日本海軍のゲストである」

 工藤は明治三十四年一月、山形県屋代村(現高畠町)で生まれ、大正九年八月、海軍兵学校に入校した(海兵五十一期)。当時の海軍兵学校は英国人教師による英語や紳士としての教育が徹底された。工藤自身、在学中に英国人女性と文通したこともある。

 一方、当時海軍兵学校の校長だった鈴木貫太郎中将(終戦時の首相)は「武士道」にこだわり、日露戦争で敗軍の将ステッセルの扱いに際し、「武人の名誉を保たせよ」と言われた明治天皇の故事を生徒に語り継いだ。

 惠は「精神的に豊かな良き時代に、良き教育を受け、良き軍人に育った結果、奇跡の救助劇が生まれた」と語る。

 おおらかで温厚、一八五センチの偉丈夫だった工藤のあだ名は「大仏」。工藤を慈父のように慕い、「艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」と公言する乗員らの存在も奇跡を助けた。

                 ◆◇◆

 しかし、工藤は戦後、この事実を語らなかった。惠はその理由を「職務を忠実に果たし、己を語ることを潔しとしないサイレント・ネービー(沈黙の海軍)精神の発露」とみる。工藤の親族や「雷」乗務士官の遺族は惠の取材に「そんな立派なことをしたのか」と、一様に涙し、工藤の夫人ですら救助劇を知らずに亡くなっていた。

 工藤が艦長を退任した後の昭和十九年四月、「雷」は西太平洋で米潜水艦の攻撃で沈没、乗っていた約二百六十人全員が戦死した。この悲劇が「奇跡の救助劇」を封印したのかもしれない。

 終戦を故郷で迎えた工藤は三十年、埼玉県川口市に移り、夫人のめいが開業した小さな病院で事務の仕事をしていた。自衛隊や大企業の招きにも応じず、兵学校のクラス会にも出席しなかった。

 五十四年一月、最期を迎えつつあるとき、見舞いに駆けつけた兵学校同期の二人に工藤は、こう言って静かに目を閉じた。「貴様たちは大いにやっている(社会で活躍している)ようだが、おれはウドの大木だったなあ」

 工藤はなぜ沈黙を守ったのか。平和な時代を前に散華した戦友らに対する「けじめ」だったとする見方もある。艦橋で工藤が、ほおを伝う涙を拳でぬぐう姿を目撃した部下がいる。兵学校同期の戦死の報に接した直後のことだった。   =敬称略

                  ◇

 詳細は来年六月、「海の武士道」として出版される予定。

                  ◇

 サムエル・フォール卿 フォール卿は昭和62年、工