■<一日一生:1月24日>(内村鑑三)
●わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、
いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、
それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。
なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る
(ヨハネ伝14-16~18)
われらがキリスト信者となりたりというのは、
洗礼を受けてキリスト教会に入りたりということではない。
またはわれらの知能をもってして、
キリスト教の教理を理解したということでもない。
われらがクリスチャンとなりたりということは、
われらがある「聖者」を友として持つに至ったということである。
しかも単にあるふるき記録において、
ある理想の人を発見したというのではない。
いま活けるある聖(きよ)き友人を発見して、
そのともなうところとなったいうことである。
すなわちわれらは大なるパラクレートス、
すなわち「側(そば)にある者」をえたということである。
寂寞(せきばく)の世にあって孤独の生涯を送るをやめて、
大なる「訓慰者(なぐさむるもの)」を平常の友として持つに至ったということである。
★★★
【聖書】を通じて出遭える<最高!最善!最美!>の【神の愛=主イエス】とは、私たちと<いつも一緒!>で共に喜び共に悲しんでくれる<相思相愛>の【真の友】であることは<歓喜!感動!感謝!>です!ハレルヤ!
●【友人としての神】
神は善き友人である。第一等の友人である。彼に祈祷を聞くの耳がある。恩恵を施すの手がある。
神は名ではなく実である。道理ではなく性格である。帝王ではない友人である(内村鑑三)
●【幸福の途】(内村鑑三)
人として生まれし最大名誉、最大幸福は、イエスを知り、彼に知られて、彼の友人となることである。
●私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である(ヨハネ伝15-14)
●もはや、私はあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。
私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべて、あなた方に知らせたからである
(ヨハネ伝15-15)
●世には友の振りをする、みせかけの友もある。
しかし、兄弟よりも愛し、頼もしく親密なる友もある(箴言18-24)
●真の友はどんな時も愛し続けるものであり、苦難の時のために生まれた兄弟である(箴言17-17)
皆さんが、【★ダイナミック!★エキサイティング!★ワンダフル!】な【神の愛=主イエス】に、<相思相愛の>【真の友】になってもらって、心に抱く<最愛の我が子・我が分身>である【ビジョン:理想・夢・志】を目指す時には、<最善・最強の味方>であり<いつも一緒!>の【神の愛=主イエス】と共に挑戦されることを心より応援しています!
●神様という友人に対して、子供のように信頼することは、
ありとあらゆる処からやってくる、問題を解決してくれる(ヘレン・ケラー)
●神と完全に友となった人にとっては、それ以降の人生において、もはや幸福な出来事しか起こらない(ヒルティ)
●主を呼び求める人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし
主を畏れる人々の望みをかなえ、叫びを聞いて救ってくださいます(詩篇145-18~19)
●一番大事なものは、続ける勇気をもつことだ。そうすると、神様が味方してくれるんだ(アンソニー・ホプキンス)
●神様は天高く遠くにおられるが、祈るなら神様がこの地に降りてこられ、
さらに神様の能力と私たちの努力を結び付ける。(ガースパリン)
●朝の祈りは神様の慈悲と祝福の倉庫を開く鍵であり、
夕方の祈りは神様の守りの御翼の影に隠していただく入り口である(ペンリーピッチャー)
●私たちの生きた祈りと賛美が少しでもあるなら、
神様は千里の道をかけてでも私たちに会いに来てくださるだろう(アーロンド)
それでは今日も明日も素晴らしい人生をお過ごし下さい。
May grace and peace be with your spirit.
Good luck & God bless you!