【2008年9月30日に作成した<第475回>に加筆】
◇◇<陳情・嘆願・苦情>は【神の愛=聖霊】に従って<異言>で語ろう!(その1)◇◇
【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さん、こんにちは!ご愛読に感謝します!
皆さんの多くは御存知だと思いますが、私は【聖書】の<異言>について最近になって
ようやく語るようになれました。
私の理解では、キリスト教諸宗派の多くは【聖書】に示されている記述にあるように
原始教会の時代においては宣教のために必要であったが、現代においては<異言>の
必要も役割もすでに終わったと主張しているようです。
●愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、
知識はすたれるであろう(コリント前書13-8)
一方で、ペンテコステ派や福音派では、現在でも教会で<異言>で讃美している光景を
ドキュメント番組などで見たことがあります。
私自身も<異言>は現在でも私たちの身近に活き活きと息づいていると実感できます。
<異言>は私たちの内に宿る【神の愛=聖霊】自身が、舌を使って直接語ってくれる
「聞きなれない言葉」や「外国語」であると記されています。
●パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、
預言をしたりした(使徒行伝19-6)
●舌のようなものが、炎のように分れて現れ舌のようなものが、炎のように分れて現れ、
一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、
いろいろの他国の言葉で語り出した(使徒行伝2-3~4)
<異言>は人間と【神の愛=天の父・主イエス】とが<霊的交流・会話>するために、
私たちの<仲保者・弁護人>の【神の愛=聖霊】が<通訳・弁護・演出>することで
私たち自身が直接対話できる最善の<パフォーマンス(表現・振舞い>だと思います。
●異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。
というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです
(コリント前書14-2)
<いつも一緒!><最高!最善!最美!>の<霊的パートナー・人生の伴侶>である
【神の愛=聖霊】は【神の愛=天父・主イエス】と直接<霊的交流・会話>する為に
私たち専属の<メディエーター:仲保者・弁護人>で<スピーチ・ライター>であり、
演技指導や演出をしてくれる<アドバイザー&コンサルタント>です!ハレルヤ!
●御霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださる。なぜなら、私たちは
どう祈ったらよいか解らないが、御霊自ら言葉に現わせない切なるうめきをもって、
私たちのためにとりなし祈ってくださる(ロマ書8-26)
それは現在世界が注目している米国大統領選挙キャンペーンに似ていると思います。
自分の立場・主張・【ビジョン:理想・夢・志】を説明して国民の理解を得るために、
多くのスタッフの支援協力があるから有効な<パフォーマンス>が実現できるように
私たちの【礼拝:★讃美★祈り★感謝】を<最高!最善!最美!>に捧げるためには
【神の愛=聖霊】から助言・指導してもらう事こそが最も有効だと実感できるように
<天賦の特権:霊的賜物>として<異言>がある事は<歓喜!感動!感謝!>です!
●ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、
ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています
(コリント前書12-10)
●神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、
次に預言者、次に教師、奇蹟を行なう者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、
管理し治める者、異言を語る者などです(コリント前書12-28)
【神の愛=聖霊】の総合支援で生まれる<異言>の【礼拝:★讃美★祈り★感謝】は
【神の愛=天父・主イエス】だけでなく、天上界の<天使&天国の住人>たちからも
雲のような大観衆の拍手喝采で歓迎されて、【同労者・同志】として応援協力されて
心に抱く【ビジョン:理想・夢・志】を目指して突っ走ることができます!
●あなた方は、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の天使の大祝会に近づいているのです。
また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、
全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、
それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
(ヘブル書12-22~24)
●私たちはこのように多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、
一切の重荷とからみつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの参加すべき競争を
耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、また、その完成者である
イエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか(ヘブル書12‐1~2)
このような素晴らしい<異言>ですが、【聖書】は積極的に奨励していないためか
【礼拝:★讃美★祈り★感謝】する時にも、あまり重要視しないようにも感じます。
そのため、私自身も<異言>とは、陶酔状態で祈ることができる<特別な人>だけの
<特殊な現象>であって、私には無縁なものだと思い込んでいました。
ところで、私自身の目前の生活問題・悩み解決などの切なる<願い事>がある時にも
<先回りの愛>に応えて<先取りの信仰>で<歓喜!感動!感謝!>の<心意気>で
【礼拝:★讃美★祈り★感謝】することは困難であることを痛感させられてきました。
本心では「~から助けて!」「~をお願い!」「~を与えて!」と切に願っていても、
全てを御存知の【神の愛=主イエス】には、単なる<陳情・嘆願・苦情>ではなくて、
あらかじめ「~して下さり感謝します!」と<感謝のいけにえ>を捧げることの方が
遥かに大切で有力であり、誇りであり、自らも喜べることは確かに実感してきました。
●感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ
(詩篇50-14)
●感謝のいけにえをささげる人は、私をあがめよう。その道を正しくする人に、
私は神の救いを見せよう(詩篇50-23)
●神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。
私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます(詩篇56-12)
●感謝のいけにえをささげ、御業を語り伝え、喜び歌え(詩篇107-22)
●あなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます(詩篇116-17)
しかし、こんな不信仰な私に、【神の愛=主イエス】は素晴らしい【福音:恵み】を
時にかなって与えてくれたのです!それこそが<異言>です!ハレルヤ!
●それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。
けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです
(コリント前書14-22)
●異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、
だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。(コリント前書14-2)
●こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように
祈りなさい(コリント前書14-13)
★★【その2】につづく★★