【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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【神愛福音道】【聖書価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】 【<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>創世道】

【神の愛】は<ギブ・アンド・ギブ>!

◇◇【神の愛=隣人愛】は<ギブ・アンド・ギブ>!◇◇<改訂版・再掲載>
【2002年2月21日に作成した<第222回>に加筆】 

●【五千人に食べ物を与える】
  (マタイ伝14‐13~21、マルコ伝6‐30~44、ルカ伝9‐10~17、ヨハネ伝6‐1~4)
 ◆「ここに大麦のパン5つとさかな2匹とを持っている子供がいます。
  しかし、こんなに大勢の人ではそれが何になりましょう」(ヨハネ伝6‐9)
 ◆彼等の望むだけ分け与えた
 ◆みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると12のカゴに一杯になった
 ◆食べた者は五千人であった

【神の愛=隣人愛】とは<公平>に分け与えることだと思います。
【神の愛=主イエス】は私たちの<望む分>に基づいて<公平>に与えてくれます。

最近のテレビではホームレス取材が毎日のように報道紹介されています。
ある日の報道では、大阪のホームレスに対する行政の取り組みが紹介されていました。

厳しい寒い冬の夜をしのげるようにと行政は宿泊施設を用意しています。
しかし、限られた人数しか収容できません。
宿泊を望む者は夕方並んで整理券をもらう必要があります。
整理券がなければ、基本的には施設内に入れてもらえないようです。
テレビ取材では、せっかく整理券をもらおうと列に並んでいたのに、結局多くの人々が
整理券をもらえないので残念そうにその場を立ち去る姿が放映されていました。

この行政の考え方は<機会の平等>として公平性を保っているのかもしれません。
全員を収容できないから「仕方ない(no way)」という結論なのでしょう。

しかし、【主イエス】ならばそのような方法を選ばれないでしょう。
【主イエス】ならば、全員が疲れた時にいつでも入って休めるようにと、夜だけでなく
一日中施設を開放させるでしょう。

「いつでも貴方のホームのように、気楽に自由にご利用下さい!」
と看板を作らせて彼等に提供してしまうでしょう。

整理券など配って入場制限をしなくても、彼等はどんなに狭くて窮屈でも、外の寒さと
危険な恐怖の夜に比べれば、楽園みたいで不平など言うはずはないと思います。

一般的に考えるならば、もし完全開放して、<無償・無条件>に提供してしまったなら、
バーゲン・セールに殺到する買い物客のようにパニックが起きることを心配したのか?
それとも図書館のような公共施設みたいに<見張り>がいないと、盗みや落書きや破損が
起きることを心配したのでしょうか? しかし、私はそうはならないと信じます。

困窮にある彼等ならば、お互いに助け合い適切な<自治運営>が実現されるからです。
せっかく行政が施設を用意したのなら、彼等に一切を任せる事こそが最善の運営方法だと
私は思います。

【聖書】が示す「五千人に食べ物を与える」という奇蹟的な歴史的事実で証明できます。

皆さんの多くもご存知だとは思いますが、四つの【福音書】全てに示されるこの記事は、
貧困・飢餓など困窮救済のための<最善の方法>が示されていると思います。

手元にはある物は、「子供が持っているわずか『パン5片とさかな2匹』>という記事は
資金・資材・労働力・施設などの<物資不足の象徴>であると思われます。

このことは現代の日本の経済・社会問題にも通じる課題ではないでしょうか。

【神の愛=主イエス】に直接<愛の説教・施し>を受けたい!と願って、街のはずれまで
やって来た五千人の民衆を目の前にして、夜も近づき、弟子たちは心配し始めます。
彼等全員に提供できるだけの<物資:食糧と資金>が手元に用意できなかったからです。

なるべく早く事情を説明して各自の責任で食べ物を得るように、解散させるしかないと
結論します。しかし、【主イエス】はそのような世間的常識の方法を選びませんでした。

●時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。
 「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。
  そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
 これに対してイエスは「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。
 弟子たちは、
 「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」
 と言った(マルコ伝6-35~37)

弟子たちが努力してようやく確保できたのは、無力な子供のわずかな食料だけでした。
【主イエス】は、この子供の「5つのパンと2匹のさかな」で、五千人全員が満足できる
<公平>な【神の愛の奇蹟】を示します。【神の愛の力】だけで<物資:パンと魚>が
増大して<公平>な分配は実現したのでしょうか?私は違うと思います。

五千人の中には、パンと魚を持っていた子供のように、自分のための夕食用に食糧を
持参して説教を受けに来ていた人がたくさんいたに違いありません。

そこで【主イエス】は自分の為の食糧を進んで提供した<独りの子供>を賞賛する事で
<ギブ・アンド・ギブ>の<心意気>が【神の愛=隣人愛】の<具体的実践>であると
五千人に、そして【聖書】を通じて私たちに、解りやすく教え示したのだと理解します。

【主イエス】の説教や癒しを直接受けたばかりの五千人なら、心洗われて素直になって
<求める>より<与える>方が幸いな事を実感できて、喜んで実践できるはずです。

●受けるよりも与える事の方が幸いである(使徒行伝20‐35)
●人間の無私の献身によって隣人たちの幸福を生み出したり、それを固めたり、または
 増進したりするためにはたらく時、初めて真の人間、つまり神の似姿になり始める。
 ただ自分のために存在するならば、人間とはいったい何であろうか(ヒルシェ)

多くの大人たちが、独りの子供の行為に見習って、皆に分け与えよう!と進んで喜んで
<ギブ・アンド・ギブ>の心意気で【神の愛=隣人愛】を実践したのだと思います。

愛と自由の勇気ある行動は、豊かな人生経験と知識を持つ大人から生まれるのではなく、
素直な<幼な心>を持つ者が<先導者・先駆者>となる事は【神の愛の摂理】ですね。

●知恵のある者や賢い者に隠して幼な子のような者に現わした(マタイ伝11-25、ルカ伝10-21)
●私たちは幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、幼な子らしく
 考えていた。しかし、おとなになった今は、幼な子らしい事を捨て去った
(コリント前書13-11)
●幼な子をそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのを止めてはならない。
 天国はこのような者の国である(マタイ伝19~14)
●有限の我等が無限の神に対して幼な心を懐くにいたって救われる。
 すなわち、幼な子となりて救われる(内村鑑三
●天国とはそのような者(幼な子)の国である。幼な子のように神の国を受入れる
 人でなければ、決してそこに入いることはできない
(マタイ伝19-14、マルコ伝10-13~16、ルカ伝18-15~17)
●【国家の危殆~国家の指導者】
 人によらずして神へ頼んで国家の指導を小児にゆだねるべし(内村鑑三

【神の愛=隣人愛】を直ぐに理解した子供に見習って、各自が隣人の<望む分>だけを
<公平>に五千人全員に分け与えられた後になっても、たくさん余っていたことこそが
まさに【神の愛の奇蹟】であり<歓喜!感動!感謝!>です!

●すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠に
 いっぱいになった(マルコ伝6-42~43)

彼等は肉体的には満腹しなくても、進んで【分け与える】喜びによって、心が安らいで
精神的に満足したに違いありません。

永遠に飢え乾くことのない<心の糧>を得られたからです!ハレルヤ!

●私(主)が与える水を飲む者は、いつまでも、かわく事がないばかりか私が与える水は、
 その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がるであろう(ヨハネ伝4‐14)
●我々のまことの喜びは、真に必要なものを満たされた時にのみ生じる(ヒルティ)
●幸福は常に我が腕と心とにある。これを他人の手に求めて我等に来るものは
 ただ失望と恥辱と不平のみである(内村鑑三

今日の海外ニュースで喜ばしい【福音】が紹介されていました。

それは、先日紹介した親の無いオリックスを育てるケニヤの母親ライオンの続編です。
前回は残念ながら他のライオンがオリックスを殺してしまいましたが、また別の子を
育て始めたのだそうです。

前回の失敗にこりて、母親ライオンは用心深くなり、子供を常に見守っているそうです。
現在子供のオリックスが脱水症状で弱っているので、係員が助け介護しているのですが、
回復すれば母親ライオンに返す予定です。

母親ライオンの不可能を可能にマイナスをプラスに変える<ギブ・アンド・ギブ>の
チャレンジが世界中に、そして私自身にも勇気と励ましと希望を与えてくれています。

●ためしてみること、着手する事によってのみ、最も偉大な事柄も成就するものだ
 (ヒルティ)

私たちが【霊性:魂[勇気]・善意・良心】を発揮できる【神の愛=隣人愛】に従って
心に抱く<最愛の我が子・我が分身>である【ビジョン:理想・夢・志】を目指す時も
不可能も可能に、マイナスもプラスに変えられるのは、<ギブ・アンド・ギブ>であり、
そして【神の愛の奇蹟】は時にかなって起きるのだと確信できます。

●神は神を愛する者たちと共にはたらいて万事を益となるようにして下さる
 (ロマ書8‐28)
●人に与えるということも、多くの偉大な事柄と同じように、ただ実地の練習を通じて
 学ぶものである。しかし、一旦学んでしまえば、それは人生の最も大きな喜びの一つと
 なる(ヒルティ)
●一つの冷静な判断は、千のやかましい会議に勝っている。
 なすべきことは光を与えることであり、熱を与えることではない(T.W.ウイルソン
●何を与えるかということよりも、大切なのはどう与えるかということだ(ゲーテ

マザー・テレサが語ったように、<先駆者>のチャレンジはたとえ「大海の一滴」でも、
やがて将来には、【愛と自由】が見事に結集して「大海」が生まれる事が楽しみです!

●わたしたちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
 でも、その一滴の水があつまって大海となるのです(マザー・テレサ

私たちが財力も資材も資源も権威や名声も実績など世間的には<無一物>であっても、
一切の心配御無用です!【神の愛=隣人愛】と【霊性:魂[勇気]・善意・良心】に
献身できる<ギブ・アンド・ギブ>の精神と、心には<最愛の我が子・我が分身>の
【ビジョン:理想・夢・志】を守り育てる事が、実現のための<前進>だからです!

●ある者は車を頼み、ある者は馬を頼み、ある者は学問を頼み、ある者は多数を頼む。
 しかれども我は我が主の神を頼まん(詩篇20‐7)
●幸せか不幸せかを決めるのは、あなたが持っているもの、あなたが誰か、
 あなたが何処にいるかではない。あなたが何を考えるか、である(カーネギー)

皆さんが無から有を生み、不可能も可能にする<ギブ・アンド・ギブ>の<心意気>で
【ビジョン:理想・夢・志】に挑戦されることを心より応援しています!

●大切なのは、私たちがどれだけの行動をするのではなく、それをするのに、
 どれだけ愛を注いでいるかです。大切なのは、私たちがどれだけ与えるのではなく、
 それを与えることに、どれだけ愛を注いでいるかです(マザー・テレサ