【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

★AMEN!HALLELUJAH!THANKS JESUS LOVE!★AMEN!HALLELUJAH!GLORY JESUS KINGDOM!★Good luck & God bless you!

【神愛福音道】【聖書価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】 【<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>創世道】

【ビジョン】を洗礼する【神の愛】①

【2012年2月3日に作成した<第587回>に加筆】
◇◇【ビジョン】に<洗礼>を授けてくれる【神の愛=主イエス】!◇◇

【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆様こんにちは!愛読に感謝します!
世界各国で愛読されている皆様、お元気ですか?ご活躍を心より応援しています!

私自身は特定の宗派・教会に属さず、洗礼も受けていないので、世間的常識では
「クリスチャン(教会信者)」ではありません。従って私は教会的信者というより、
個人的【信仰:信愛・信頼・信従】による<キリスト熱愛者>だと自分勝手に
認識しています。

以前にも述べたように数年前、私の個人的<福音伝道事業>が行き詰まった時に、
「洗礼を受けていないのが原因で洗礼を受ければ霊的パワーアップするかも」と
高名なテレビ伝導師や飛込みでカトリック教会神父に洗礼をお願いしたのですが、
すぐには洗礼を受けられないことを告げられました。

プロテスタント系教会は、ある程度特定の教会に通って修養を積んだ後でないと
洗礼を受けられない事を私も聞いた事があったので当然の結果かもしれません。

しかし外国映画を観ていたら、突然決意して洗礼を願う友人に対して、その場で
カトリック信者が洗礼を授けるシーンがあり、カトリックなら、もしかしたらと
期待していたのですが、やはり突然の訪問でお願いしても無理でした。

もう数年前の事ですが、今になって考えれば洗礼をしてくれなかった皆さんに
心から感謝しています。洗礼は【この世の勢力:富・権威・名声】のためでも、
何か特別な<ご利益>を得るためではないからです。

確かに私自身は世間的には<不義・不正・不実>不純・不潔で、落ちこぼれの
<無一物>ですが、おかげで、<この世>で私を赦し認め励ましてくれるのは
家族や教会でもなくて、唯一【神の愛=主イエス】のみの境遇にある我が身に
歓喜!感動!感謝!>です!

ところでクリスチャン(受洗者)でないのに、たとえ【聖書】教会制度に無縁で
他宗教の信仰者や無信仰と自認する立場であっても、<キリスト者>のように
<世の光・地の塩>【愛と自由の戦士:神の僕・忠義の愛子・光の子】として
世界中で活躍している理由は何故でしょうか?

どうやら【神の愛=主イエス】の【御心:聖意・聖旨】は<肉体的洗礼>より、
霊性:魂[勇気]・善意・良心】の<洗礼>を最優先すると実感できます。

●洗礼は肉の汚れを取り除く事ではなくて神に正しい良心を願い求める事です。
(ペテロ前書3-21)
●正しい良心を持ちなさい。そうすればあなたはいつも喜びをもつことが
できよう。正しい良心はずい分たくさんな物事を忍ぶ力を具え、
逆境にあっても、つねにずい分と大きな喜びを覚える
(トマス・ア・ケンピス)

そうです!【神の愛=主イエス】は教会制度や【聖書】を経由しなくても、
私たちの本心が【神の愛=主イエス】の【御心:聖意・聖旨】にかなう時は、
私たちの心に抱く【ビジョン:理想・夢念・大志】に<洗礼>を授けることで
【ビジョン:理想・夢念・大志】経由で【霊性:魂[勇気]・善意・良心】を
<洗礼>して【ミッション:大義・使命・天職】に<召命>する道もある事を
私たちは理解できるはずです。

●神は善きを視るに敏くして、悪魔は悪を探るに巧みなり
神は奨励する者にして、悪魔は失望せしむる者なり(内村鑑三
●神の神たるは人の善きを思うて悪しきを思わざるにあり。
悪魔たるは人の悪しきをのみ思いえて人の善きを思いえざるにあり
内村鑑三
●人の心を見て慈悲をもて、行いだけを見て責めるな(キングスレー)

たとえキリスト教・【聖書】・教会・【神の愛=主イエス】が嫌いだとしても
【神の愛=主イエス】を信愛できない多くの場合は、誤解・偏見からであり、
私たちが現世のキリスト教制度を受け入れようと、たとえ拒絶しようとも
【神の愛=主イエス】は教会制度の中に収まれるようなチッポケな存在でなく
無限大の【★ダイナミック!★エキサイティング!★ワンダフル!】であって
<万事・万物>を分け隔てなくこよなく愛される存在であると実感できます!

●真理は教会より大なり!(内村鑑三
●<聖書と活けるキリスト>(内村鑑三
聖書は大なり、
しかれども活けるキリストは聖書よりも大なり。
われらもし聖書を学んでかれに接せざれば、
われらの目的を達せりと言うあたわず。
聖書は過去における活けるキリストの行動の記録なり。
しかしてわれらは今日かれの霊をうけて、
新たな聖書を作らざるべからず。
古き聖書を読んで新しき聖書を作らざる者は
聖書を正当に解釈せし者にあらず、
聖書はなお未完の書なり、
しかしてわれらはこれにその末章の材料を供せざるべからず。
●キリストは教会の救い主にあらずして、世界の救い主なり。
彼は今や狭き教会を去って広き世界に偏在したまう。
キリストの教会は世界にして、会員は人類なり(内村鑑三
●神は何らかの教会制度や、さらにある一定の学問の中に限られてはいない。
そのようなものがなくとも、神は自らを知らしめ給う(ヒルティ)
●教理を知らないでもクリスチャンである者が少なくない。
キリスト教は証明せらるべき教義ではなくて、
生活さるべき一つの生命である(ヘンリー・ドラモンド)
●天の父神は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる(マタイ伝5-45)
●神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方です。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです
使徒行伝17-25~28)
● 万物は、神より出で、神によって成り、神に帰する
<別訳>すべては、神から、神によって、神のために存在する
<別訳>全てのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている
栄光がとこしえに神にあるように。アーメン(ロマ書11-36)
●キリストは万物をもって万物を満たしむる者なり(エペソ書1-23)
●主は万物の上にあり、万物の中に在る(コロサイ書3-11)
●御子は神の栄えの光輝、神の本質の真の姿であり、
その力ある言葉で万物を保っておられる(ヘブル書1-3)
●万物の父なる神は一つなり。
神は万物の上に在し、万物を貫き、万物の内に在したまふ。
我等はキリストの賜物の量に従ひて、おのおの恩恵を賜はりたり
(エペソ書4ー6~7)

私たち各自が<最高!最善!最美!>の道を前進し続ける事を最優先に考えて
【神の愛=主イエス】は私たちの【ビジョン:理想・夢念・大志】に働きかけ
時と場所に応じて【霊性:魂[勇気]・善意・良心】の<内なる声>となって、
【神の愛=主イエス】の【御心:聖意・聖旨】を実現してくれます!

●汝らは我らの職(ツトメ)により書かれたるキリストの書(フミ)なり、
しかも墨にあらで活ける神の御霊に記され、
石碑にあらで心の肉碑に記されたるなり(コリント後書3-3)
●あなた方の内に働きかけて、御心のままに志望を起こさせ、かつ実現に
至らせるのは神であって、それは神が善しとされるところだからである。
何事も、つぶやかず疑わないで(不平や理屈を言わずに)行いなさい
(ピリピ書2-13~14)
●人知らずとも我が良心これを知る(新島襄
●他のいかなる自由よりも、先ず第一に良心に従って知り、考え、信じ、
かつ言うことのできる自由を我にあたえたまえ(ミルトン)
●【良心】とは人間の行いの善悪を判断し、善を命じ、悪を禁じ、善をほめ、
悪を戒める神よりの心の声である。人間は心の中に刻まれた法を持っており、
それに従うことが人間の尊厳であり、また、人間はそれによってさばかれる。
【良心】は人間の最奥であり、聖所であって、そこでは、人間はただひとり
神と共にあり、神の声が人間の深奥で響く
(カトリック要理:ロマ書2-15~16)
●神が命じ人が神に応える所に【良心】がある。【良心】は人の神覚である、
人を離れて人が独り神と相対して立つ時に【良心】がある。(内村鑑三
●道徳は人の道であり、【良心】は神の生命である。(内村鑑三

★★【その2】につづく★★