【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

AMEN!HALLELUJAH!THANKS JESUS KINGDOM! Good luck & God bless you!

【神愛福音道】【聖書価値観】<神愛価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】

肉体&霊魂を数える【神の愛】!①

◇◇【肉体:生命】と【心:霊魂】を救えるのは誰か?(その1)◇◇
【2003年7月13日に作成した<第309回>に加筆】<改訂版・再掲載>

●【神の救済法】(内村鑑三
 死に勝つに生をもってし、暗(ヤミ)に逐つに光をもってし、怨を滅ぼすに愛をもってす、これ神の救済法なり。
●【最大の能力(内村鑑三)】
 確信と称する活動力ではない、信仰と称する一種の依頼心である。
 これが世界を動かした力である。
 先ず我の無能を覚って、しかる後に神の大能に頼る、かくて自己は死して
 神、我にありて生きるに及んで、我は真個の勇者となる。

【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さんこんにちは!ご愛読に感謝します!

最近の様々な報道には驚くべき【神の愛の啓示】が示されていると感じます。

医者や警察が「生命」を守り救うために、裁判や法律が「罪」を定めて裁く社会的役割として取り決めても、既存の社会的役割だけでは解決できない事が多発しているように思われます。

釈迦の教えの中に「ケシの実」に関わる「たとえ話」を聞いたことがあります。
実際の「たとえ話」とは異なるかも知れませんが、ご容赦下さい。

愛する幼子の命を救えなかった母親が我が子を抱きかかえて、釈迦のところにやって来ます。「どうか私の愛する子を生き返らせてください!」

釈迦は目の前で嘆き悲しむ失意の母親を憐れんで、母親に次のように命じます。

「我が子の命を救いたければ、家族の内に一人も死者を出していない家を捜して、その家の庭に植えられているケシの実をもらって来なさい。」

母親は町中の家々を訪問して、家族に死者がいない家庭を捜し求めたそうです。
母親が尋ねると、どの家庭にも家庭の数だけのとても悲しい死別がありました。

多くの家庭を尋ねるうちに、母親は気づいたそうです。
「悲しい死別は私だけではないのだ・・・。」

釈迦は母親を慰め、【人生の苦悩:喜怒哀楽・生老病死】から解放させるために、一種の「あきらめの境地」に導いたのではないでしょうか。

一方で【聖書】にある【神の愛=主イエス】の解決方法は異なります。

たとえば、【主イエス】と家族ぐるみの付き合いがあって、とても仲が良かったマルタ・マリア姉妹の弟ラザロが急死した知らせを聞いた時に、死後4日目でも、悲しむ姉妹の姿に心動かされてラザロを【神の愛】によって復活させるのです(ヨハネ書11-1~44)

この【神の愛】による【奇蹟の復活】は単なる一方的な慈愛ではありませんでした。
マリアとマルタの<信仰の証明>であり、そして目撃者全員に【神の愛】の栄光を示すために行われたのです。

●私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる(ヨハネ書11‐25)
●父よ、私(主イエス)の願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでも私のの願いを聞き入れて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたが私をつかわされたことを、信じさせるためであります(ヨハネ書11‐41~42)

さらに、もっと感動的な【神の愛】による【奇蹟の復活】の出来事が記されています。

それは意気揚揚と【福音伝道】へと向かう【主イエス】と使徒たちと大勢の群衆の【喜びの行進】の途中の街で葬儀に向かう【悲しみの参列】と遭遇した時の出来事です(ルカ伝7-11~16)

【主イエス】にとって知り合いでもない初めて出会う葬列に深い同情を示されます。やもめで身寄りの無い母親にとって、最愛の一人息子との【悲しみの死別】だったからです。

【主イエス】はその婦人から懇願もされないのに、自ら棺に近づいて最愛の息子を【神の愛】によって、婦人の信仰を確かめることなく無条件に【奇蹟の復活】へと導いてくれたのです。

何と素晴らしき【神の愛】でしょう!私たちに【大いなる希望と励まし】がここに示されています。ハレルヤ!

●(人々は)「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた(ルカ伝7-16)

たとえ、私たちが【人生の苦難】に打ち負かされて【神の愛=主イエス】さえ見失うほどの【どん底】にあっても、【礼拝:★讃美★祈り★感謝】すらできないほど【絶望的悲しみ】にあろうとも、たとえ私たちが地獄の底にいようとも、【神の愛】の方から救出に来てくれる証明です!

●我は逃れんと欲して、我が神の恩恵の手より逃れることはできない。
 神は奈落の底にまで、神の手を拡げて我を支え我を救い給う(内村鑑三詩篇139‐7~8)
●私はあなた(主)の御霊から離れてどこへ行けましょう。
 私はあなたの御霊を離れてどこへ逃れましょう
 たとい、私が天に昇っても、そこにあなたはおられ
 私が黄泉(ヨミ)に床を設けても、そこにあなたはおられます(詩篇139‐7~8)

私たちが直面する様々な【人生の苦難】とは【患難:神愛の試練】であることを信じて、恨まず憎まず静かに受け入れて、失望しても、じっと耐え忍ぶならば、【神の愛=主イエス】は、いつも私たちを見守っていて下さり、【神の愛】の時に応じて【最善の恩恵】へと導かれる事を信じましょう!ハレルヤ!栄光を主に帰します!

●善をなすことのみ善事にあらず、困難に耐ゆること、これもまた大なる善事なり。
 我等は自ら困難に耐えて困難にある多くの同胞を慰むるをうるなり(内村鑑三
●あなた方の会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなた方を耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それを耐えられるように、逃れる道も備えて下さる(コリント前書10‐13)
●患難のための恩恵にあらず、恩恵のための患難なり。患難は手段にして、恩恵は目的なり(内村鑑三
●患難は恩恵と離れて考(オモ)うべからず、そは患難は恩恵の一部なればなり。
 患難ありて初めて人生に香味は生ずるなり(内村鑑三)
●私は思う。今この時の苦しみは、やがて私たちに現されようとする栄光に比べると言うに足りない(ロマ書8‐18)
●人生の幸福は困難に出会うことが少ないとか、全く無いとかいうことにあるのではなくて、むしろあらゆる困難と戦って輝かしい勝利をおさめることにある(ヒルティ)
●試練と祝福は密接に関連している(ヒルティ) 
●困難は我をして神に接近せしめ、また人に鍛接せしむ。困難は我の単独を破り、我をして人類の一員たらしむ。尊むべきかな困難!(内村鑑三

ヘブライ語で「労働」を意味する「アボダー」という言葉は大きく三つの行動を兼ね備えているそうです。それは、1:労働 2:奉仕 3:礼拝です。

●仕事は、すなわち祈祷(礼拝)なり(内村鑑三

私たちは「金銭労働」と「ボランティア活動」と「信仰活動」とは別物と分けて考えがちではないでしょうか。
しかし、【神の愛】から観るならば生きている事自体が、【愛の労働】であり、【愛の奉仕】であり、【愛の礼拝(賛美)】と言えるでしょう。

私自身もそうですが、「進化論」と「天地創造説」とは<敵対関係>と考えるのが一般的ではないでしょうか。つまり、「進化論」は「天地創造説」を完全否定し【神の愛】すら認めない思想だと思えるからです。

完全否定してきた私は、最近になって「進化論」にも、【神の愛】が明確に示されていると実感するようになりました。

「進化論」は過去の歴史に適用とするのではなく、これから先の未来の現実的不可能な【ビジョン:理想・夢・志】の実現に挑戦し続ける時にこそ、素晴らしい【神の愛の奇蹟】】が作用することを科学的に考察してくれた先駆的挑戦だと思います。

●科学は天然界における事実の観察なり。宗教は心霊界における事実の観察なり。二者同じく事実の観察なり。科学と宗教は善き兄弟なり。 科学の敵は宗教にあらず、思弁なり。宗教の敵は科学にあらず、神学なり(内村鑑三

私の「進化論」解釈自体が間違っているかもしれませんが、ご容赦ください。「進化論」では全生物が「自然淘汰:適者生存」という【天然の摂理】に従っているということが前提だと思います。

自然淘汰」の特徴は「弱肉強食」であると見なされています。そして、ジャングルの中での【弱者・少数派】こそが将来に「進化」してきたというのが「進化論」の主張だと思います。

海中の弱肉強食の世界で、いつも追われる身であった弱きH種類の魚の一匹が、ある日「こんな海中で生活するのは真っ平ご免だ。よし!陸地に上がってやろう!」という【ビジョン:理想・夢・志】を抱き勇気ある決断と実行に挑みます。

しかし、初めの挑戦者は成功しなかったでしょう。私たち人間が、今でもそのままでは水中や宇宙で生活できないのと同じように、魚も当初は「えら呼吸」のために【天然の摂理】が許さなかったに違いありません。

海中の生命が上陸するまで、どれほどの魚たちが犠牲となってくれたのでしょうか?

「進化論」では時代の「勝利者・強者・多数派」ではなく、常に【弱者・少数派】が「より高く!より遠く!より速く!」といった未知の分野・世界へと未実現・未完の【現実的可能性】にチャレンジしてきた【生命の歴史】だといえるのではないでしょうか。

まさに望み得ないものを望み続ける【アブラハムの信仰】に始まる【信仰の歴史】が「進化論」には示されているではありませんか!

●これらの人はみな、信仰を抱いて死んだ。まだ約束のものを受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを自ら言い表した(ヘブル書11‐13)
アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである(ヘブル書6‐15)
●彼(アブラハム)は神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した(ロマ書4‐20~21)
●偉人の生涯は我々に教える
 我々もまた高貴に生き得ることを
 そして彼亡きあとには 時の砂上に足跡を残すことを。
 別の弱い、よるべなき兄弟は人生の荒海を渡りつつ
 おそらく、それを目に留めて新たに勇気と奮い起こすであろう足跡を(ヒルティ)

★★【その2】につづく★★