◇◇【神の愛⇔隣人愛】は<律法>を完成する!(その1)◇◇
【2003年3月2日に作成した<第292回>に加筆】
●愛は隣人を害する事はない。愛は律法を全(マットウ)する(ロマ書13‐10)
●キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終り[目標]となられたのである(ロマ書10‐4)
●信仰のゆえに、私たちは律法を無効にするのであるか、断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立させるのである(ロマ書3-31)
【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さん、こんにちは!ご愛読に感謝します!
最近のテレビ報道で紹介されたクルド難民の発言には【インスピレーション・霊感】を与えられました。
彼はトルコで反体制運動をして迫害を逃れるためにビザ無しで、日本にやって来ました。彼は一般の「不法滞在者」と同じ様に扱われ一年以上も収容されます。保釈金として百万円を求められたので、返済の目途もないままに支援者に借りてようやく出所できたのです。彼はテレビで発言していました。
「私は二度も迫害を受けてしまった。日本人は温かいが、日本の法律は冷たい…」
確かに、【律法・戒律・社会の掟】は罪を定めるためのものであって、【律法】の正義を例外なく断行すれば冷酷です。
●正義の温暖なるもの、これを愛という(内村鑑三)
●律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない(ロマ書4‐15)
【キリスト精神:イエスの生涯と教え】では、何よりも先ず【自由】を重視します。
【自由】とは<罪の奴隷・律法の呪縛>からの精神的な自由解放といえます。
呪縛には人間界の掟である様々な因習・世間体・先例・先入観などと同様に【神の愛=隣人愛】を見失わせがちな【この世の勢力:富・権威・名声】も含まれると思います。
【律法】や【この世の勢力:富・権威・名声】ではなく、自己の【霊性:魂[勇気]・善意・良心】に響いてくる【内なる声】に喜んで自発的に従える自由意志と決断できる能力と状態が、【神の愛=主イエス】と共に在る【自由】です!
●【真の自由(内村鑑三)】
◆真の自由は発意である ⇔ Unconditional(無境遇)
◆真の自由は正しき選択である ⇔ 霊性本来の標準に従う~霊的生命達成の道
◆真の自由は善き意志を行う能力である
●真の自由は消極的状態でなく積極的状態である
何事をも為しうる状態又能力でなく,ある事を為さずしてある他のことを為す能力
⇔善悪を判別して悪を避けて善を行う能力
●自由とは理想にあらず、境遇にあらず、能力である
●Ican do that which is right.(我は正しき事を為し能う)
今までも何度も紹介しましたが、欧米の政治家と日本の政治家の大きな違いがあります。
日本の政治家に「政治の目的は?」問うと「国民の生命と財産を守ること!」と多くが答えるのに対して、欧米の政治家は「国民の【自由】と生命と財産を守る!」と答えるようです。
さらに欧米の若者に「何を大切にしますか?」と尋ねると「良心」と答える人が多いと聞きます。
つまり、【自由】は自己の【霊性:魂[勇気]・善意・良心】の<内なる声>を尊重するために大事にしている証明だと思います。
そして、【自由】であるための【パワー(能力)】は【神の愛=隣人愛】によって得られるのです。ハレルヤ!
●私たちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである(ロマ書7‐6)
●真理はあなた方を自由にさせる(ヨハネ伝8‐32)
●主は霊である、主の霊のあるところに自由がある(コリント後書3‐17)
【霊性:魂[勇気]・善意・良心】の<内なる声>に従って【律法】に【神の愛=隣人愛】を加えている興味深いエピソードがあります。
私が92年当時、米国NYで現地の運転免許取得するために学科試験を受けた時の事です。
ご存知のように、(現在でもそうだと思いますが…)日本では学科試験を受験する為には半日がつぶされるという厳格な「儀式」のような想い出があります。
高校や大学の受験のように、大教室で監視官の立会いの下に時間厳守で行なわれた記憶があります。そして採点時間には数時間を要し、待たされた後に、学校の合格発表のように合格者だけの番号が電光掲示板に示されます。
もし、不運にも合格点に達しなければ、後日また同じ様に半日をつぶさなければならないような仕組みだったと思います。
米国NYでは全く違いました。試験会場の受付で申し込むと、問題と答案用紙については母国語でも主要言語でも自由意志で選択できます。
そして、片机附きのイスだけが並ぶ小さな部屋に案内されます。そこには恐らく世界各国からの受験者がいるのでしょうが、イスを勝手気ままな位置に動かして、試験に取り組めるのです。
試験官の立会いも無く、所要時間も自己管理で好きな時に始められます。できたら自分で採点の受付に持って行くのです。
受付では目の前で直ぐ採点して、たとえ不合格でも、その場で直ぐにもう一度問題用紙をもらって再受験ができるのです。
日本で味わった受験のようなイヤな緊張感もなく、全てが1時間位で終ったと思います。
日本の時の疲労感と異なって、爽やかな気持と共に、いよいよ一人前のドライバーになれた責任感と誇りさえも抱けた想い出があります。
試験は気楽な自由な雰囲気で、決して厳格でもないのに何故でしょうか?
根底にある【精神】の違いだと思います。つまり「失敗を赦さない精神」と「全員を合格させたい⇔与えたい精神」との違いです。
日本の問題は思わぬ「落とし穴(ひっかけ問題)」があったり、一発勝負の緊張感もあって、どちらかといえば苛酷です。
「全員を合格させたい!⇔与えたい!」という気持から生まれた試験とはいえません。
一方で、米国では「全員を絶対に合格させるぞ!」という気迫さえ感じます。そのために、誰でも実力を発揮できるようにと、ごく自然な配慮でリラックスさせてくれる環境です。
失敗しても何度でもチャンスが与えられ、しかも本人の自己管理に任せてくれる態度の方が、狭き門の受験体験よりも、「善きドライバーになるぞ!」という責任感と誇りをも抱けるから感動的です。
●何を与えるかということよりも、大切なのはどう与えるかということだ(ゲーテ)
クラーク氏が多摩大学の学長をしていた頃の「新たな試み」も興味深く感動的でした。
それは、一年に一回の受験で不運にも落第となった不合格者への敗者復活の制度です。
翌年の受験まで待つのではなく、本人がやる気さえあれば、一年間特別に入学許可して、授業に参加できるのです。
そして、一年間の授業成績が善ければ、一般学生としての資格を得る事ができるそうです。
このチャレンジ制度は本人だけでなく、一般学生の<やる気>も起こさせるという相乗効果を発揮させていると聞きました。
試験で甘やかすとサボるとか、例外を許せば正規合格者の努力が無駄となり、<やる気>も下がると考えがちですが、それは【律法】に心が支配されている証拠のようです。
年金・健保・税金の未納者に厳しくするのも、正直に支払っている人の努力を無駄にしないためであるという至極正当な価値観も【律法】遵守による保守的な発想です。
払えない人々の個人個人の都合を確認して、例外を受付けて再起・再出発させようとする「払えない人も助けよう!」という【隣人愛=神の愛】の態度は、【律法】遵守の正義だけでは生まれにくいと思います。
【律法(先例・掟・世間体)】には人を救える【愛】がないからです。しかし、【律法(規則・先例・掟・世間体)】のおかげで制度の矛盾を発見できるのです。
●律法は人を救えない。しかし、人を救う準備をする(内村鑑三)
この【律法遵守の正義】を見事に打ち破った【先駆者】が【主イエス】です!
●安息日(律法)は人のためにあるのであって、人が安息日(律法)のためにあるのではない(マルコ伝2-27)
●主は言われた「偽善者たちよ、あなた方は誰でも、安息日であっても、自分の牛やロバを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」(ルカ伝13-15~16)
【律法】原理主義者からは「破戒的行為」と思われる【神の愛=隣人愛】こそが、賢明であって【律法】を遵守して完成できる事を知った時に私たちは感動するのです。
●信仰のゆえに、私たちは律法を無効にするのであるか、断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立させるのである(ロマ書3-31)
●愛は、他のいかなるものにまして、人を賢明にする(ヒルティ)
最も貴重な【神の愛=隣人愛】が最善発揮された時に、私たちは【神の愛の奇蹟】を見ることになるのです!ハレルヤ!
●【最も貴きもの】
富と糧とに優って貴きものは知識なり
知識に優って貴きものは道徳なり
道徳に優って貴きものは信仰なり
信仰に優って貴きものは愛心なり(内村鑑三)
●【世界最大の者(内村鑑三)】
知識をもって腕力に克つべし
信仰をもって知識に克つべし
愛をもって信仰に克つべし
愛は進化の終局なり、最大の能力なり。
愛に達して我らは世界最大の者となるなり。
★★【その2】につづく★★