【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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【神愛福音道】【聖書価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観> 【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】 【<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>創世道】

【主イエス】は真友&霊的兄弟!①

◇◇【主イエス】は【真の友】&【霊的兄弟】!(その1)◇◇
【2006年1月19日に作成した<第396回>に加筆】 

●真の友はどんな時も愛し続けるものであり、苦難の時のために生まれた兄弟である(箴言17-17)

今日現在、様々な【苦難】にあっても、【再起・復活】のために、【神の愛】が慰め励ましてくれます!
明日こそ、【ビジョン:理想・夢・志】の実現を目指すために【神の愛】が勇気と希望を与えてくれます!
皆様の心に【神の愛】が宿り、存在を実感できますように【主イエス】の御名によって祈ります!アーメン

皆さんも御存知のとおり、私たちの信愛する【神の愛】は【三位一体:父・子・聖霊】であることは、大いなる恵みです!

●【三位一体】(内村鑑三)⇔【三方面よりの愛】
 【父】   ⇔父の厳格 ~ 上より
 【聖霊】  ⇔母の慈悲 ~ 下より
 【子】   ⇔兄の同情 ~ 側より

キリスト教の【神の愛】だけでなく、どんな宗教にとっても【正義と聖愛】【厳格と慈悲】は存在すると私は理解しています。
しかし、同時に教祖と弟子の師弟関係や主人と僕といった主従関係を超えて【真の友】&【霊的兄弟】となってくれる!これほどの素晴らしい【福音】があるでしょうか!?ハレルヤ!感謝します!

●私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である(ヨハネ伝15-14)
●もはや、私はあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。
 私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべて、あなた方に知らせたからである(ヨハネ伝15-15)

私には日々の苦悩に共感し、心に抱く【ビジョン:理想・夢・志】を完全理解してくれるような【同志・同情】の親友や兄弟はいません。私には人徳が皆無なので、たとえ【この世】の世界中を一生懸命に捜し求めても存在しないかもしれません。

だからといって、私は失望などしていません。私には既に【同情・同志】である堅い【真友】&【霊的兄弟】がいるからです!
【いつも一緒】で共に喜び、共に悲しんでくれる、そして、私が見限っても、決して見捨てず、見守ってくれる存在なのです!

●視よ、我は世の終わりまで常に汝等と共に在るなり≪With You Always≫(マタイ伝28‐20)
●【友人としての神】
 神は善き友人である。第一等の友人である。彼に祈祷を聞くの耳がある。恩恵を施すの手がある。
 神は名ではなく実である。道理ではなく性格である。帝王ではない友人である(内村鑑三
●【幸福の途】
 人として生まれし最大名誉、最大幸福は、イエスを知り、彼に知られて、彼の友人となることである(内村鑑三

怠け者で不器用な私にとって、自分の心に抱く【ビジョン:理想・夢・志】を目指すためには、厳格と慈悲だけでは不十分です。
こんな不義・不正で真っ黒な私には【天の父】は恐れ多いし、怠け者で自己中心な私には【慈母なる聖霊】だけでは不足です。
つまり、【子】なる【主イエス】がいてくれて、【同情】するだけでなく、私を励まし強め、私の理想の【先駆者・先導者】なってくれて、いつも助けてくれるからこそ、こんな私でも現実生活に押しつぶされて何度もノック・ダウンしても、完全ノック・アウトしないのです!

●信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をいとわないで、十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである(ヘブル書12‐12)

私の実力では不可能でも、【真友】&【霊的兄弟】の【主イエス】の生涯と教えである【聖書・福音】を人生の手本として【神の愛】に信愛するならば、【アメージング・グレイス(驚くばかりの恵み)】に預かれることを私は証言します!

●キリストの愛神主義は利他・利己両主義の上に超越し、最も多く他を利して最も多く己を利する道を我に教えたり(内村鑑三
●心をつくして神を愛せよ、それからあなたの欲することを為すが良い(ヒルティ)
●(キリストの声)信心を得るという聖い恵みを切に要(モト)め、願いに満ちて追求し、辛抱づよく信依しながら待望し、感謝して受け、つつましく保持し、つとめてこれによって働いて、天上の恵みの来る時と、その様相とは、それが来るまで神に委ねまつるべきである(トマス・ア・ケンピス)
●十字架の言葉は滅び行く者には愚かであるが、救いに預かる私たちには神の力である(コリント前書1-18)
●神への愛だけが我々を徹底的にエゴイズムから解放する事ができまたすべての本当の自己改革の始まりである(ヒルティ)
●いわゆる人間愛は、すべて神に対する強い愛という根底がなければ単なる幻想である (ヒルティ)
●神が喜ばれるのは、おそらく神へのひたすらな憧れと、神に向かって手をさしのべることだけであろう(ヒルティ)
●神の無限の力に頼りて我等は我等の信じるがごとくに全ての事をなすを得るなり(ピリピ書4‐13)

【主イエス】を【真友】&【霊的兄弟】とするのは、先ず【聖書】を身近にすることから始まります。【聖書】は【主イエス】を知る道です!
【聖書】も【主イエス】と同様に、完全理解し「信じる対象」というよりも、無条件に憧れる【愛好する対象】となることをお奨めします。

●聖書は全て神の霊感を受け導かれ書かれたものであり、人に教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である(テモテ後書3-16)

【聖書】は理解し読み解くのは霊的成長には意義深く重要ですが、それよりも先ず無条件に心から信頼し【愛好する対象】であると私は理解するのです。完全理解してから受け入れるような【信じる対象】ではなく、動植物や天然の美しさに感動し憧れ愛するのと同じように、【聖書】もまた日々成長して続けている【霊的生命】であり、まさに【愛する対象】であることを私は実感できます!

●聖書は古いものでもなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のものである(ルター)
●聖書はかつてこの世に存在した、あるいは存在するであろう書物の中で最高のものである(ディケンズ

【聖書】は【福音】であり、それ自体で無限の【ダイナミック・パワー:信じる力・望む力・愛する力】を提供してくれることを信じましょう!
今日現在、皆さんの身近に現実生活で悩み苦しんでいる【隣人】がいるならば、彼らに、そっと説明せずに【聖書】を手渡しましょう。
私たちが説教も福音伝道することをしなくても、【聖書】自らが時に応じて、彼らに近づき【神の愛】に導いてくれるからです!

●世に惨事多きや、福音を説くべし
 世に罪悪多きや、福音を説くべし
 国家を救わんと欲するや、福音を説くべし
 社会を改良せんと欲するや、福音を説くべし
 福音は世を救うための神の能(チカラ)なり(内村鑑三
●【福音の勢力】(内村鑑三
 福音は政治にあらず、しかれども国家を潔む
 福音は美術にあらず、しかれども美感を喚起す
 福音は哲学にあらず、しかれども思惟を刺激す
 福音は産業にあらず、しかれども富を増進す
 福音はこの世のことにあらず、しかれども人をその中心において
 活かすゆえに活動の全ての方面においてこの世を啓発す。
 この世以外の福音こそ、この世を救う唯一の勢力なれ。

実際に私自身がそうだったのです。私の実家も兄弟・親族もキリスト教とは無縁でありました。にもかかわらず、私の実家の書棚にポケット・サイズの【英語対訳版・新約聖書】(ギデオン協会)が、誰も知らないままに保存されていたのです。

サラリーマン時代の私は望みの米国勤務が実現したので、実家に立ち寄った際に、米国勤務に役立つ本を探した時のことです。
それまで誰にも気づかれずに収まっていた【聖書】の方から、私を招いてくれたのです!「英語がきっと役に立つよ!」そのおかげで私は【聖書】と共に、憧れの地アメリカに渡れたのです!帰国後の私にとって、【聖書】は欠かせない【同志・戦友】となりました。

もし、英語対訳版でなければ、私は実家で【聖書】と出会うことはなかったでしょう。単なる偶然ではなく【神の愛の奇蹟】です!
14年後の今日現在から振り返れば、何と絶妙なタイミングであったか、恐ろしいほどに美しい出来事であることを証言します!

●天の下では、何事にも定まった時期あり、すべての営みには時がある。
 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
 植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。
 殺すのに時があり、癒すのに時がある。
 崩すのに時があり、建てるのに時がある。
 泣くのに時があり、微笑むのに時がある。
 嘆くのに時があり、躍るのに時がある。(伝道の書3-1~5)
●神のなされることは全てその時にかなって美しい(伝道の書3-11)
●我(主)が為すことを汝今は知らず、後に悟るべし(ヨハネ伝13-7)
●あなたはまことに、大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です(詩篇86‐10)

私の実体験から考えるなら【主イエス】との出会いには条件はありません。教会信者でなくも大丈夫、境遇も資格も無関係です。
【主イエス】との出会いは【霊感・インスピレーション・ひらめき】を大切にして、始めは憧れと好奇心だけで十分だと思います。

以前も紹介したように、私の最初の【出会い】は少年時代に観た映画「ベン・ハー」に登場したイエス・キリストの生き様でした。

特に鮮やかに心に刻まれたシーンがあります。それは主人公のベン・ハーが無実の罪で奴隷船へと連行される途中のことです。
恐らくそこはナザレの町なのでしょう、ベン・ハーは水も与えられず、歩き続けて疲れきって、ついに道端に倒れてしまいます。
しかし、周囲の人々は、こん棒を持った番人が怖くて近づくこともできません。

ベン・ハーがもう終わりだと観念した時のことです。水の入ったお椀をそっと彼の口元に差し出す人がいるではありませんか!
ベン・ハーはその手をつかんで顔を見上げます。灼熱の太陽を背にして、≪その方≫の顔ははっきり見えません。

その時です、背後から怒鳴りながら巨漢の番人がこん棒を振り上げて、今にも≪その方≫を殴りつけようと駆け足で来ました。
≪その方≫が立ち上がり、後ろを振返って、怒った番人と向かい合います。

するとそれまで怒って手を振り上げていた番人が、表情を変えて、殴りつけようとした自分を恥ずかしく思ったような顔をして、静かにその場を立ち去って行くのです。

映画では≪その方≫【主イエス】の表情を一度もアップで見せることはせずに、その後姿や逆光の中の顔だけで表現しますが、それだけに、幼かった私には、「この人は何と優しくて強い人なんだろう!」と感動したものです。

【主イエス】の姿に憧れと好奇心が起こり、【心の奥】に静かに留めていたので、それから20数年後に「英語対訳版」【聖書】に手を差し伸べることができたのです。【神の愛】による全ての計らいに感謝します!ハレルヤ!栄光を主に帰します!

●創造者、主、すべてを形づくり、確立される方。その御名は主。主はこう言われる。
「私を呼求めよ。そうすれば、私はあなたに答え、あなたの知らない隠された理解を超えた大いなる事を、あなたに告げ知らせよう」(エレミヤ記33-2~3)
●【神を見ること(内村鑑三)】
 神を見るとは夢幻(マボロシ)の彼を見るということではない
 また神秘的に彼を感ずるということでもない
 神を見るとはイエス・キリストを真(マコト)の神として認むることである

★★【その2】につづく★★