●感謝の回想(内村鑑三)
われはかつてエレミヤとともに歎じて言えり。
「ああわれは禍いなるかな、
人はみなわれと争い、
われを攻む、
われを詛(ノロ)うなり((エレミヤ記15-10)」と。
しかれども今にいたりてわれは感謝していう、
ああわれは福(サイワイ)なるかな、
人みなわれと争い、
われを攻め、
われを詛(ノロ)いたれば、
われは神に結ばれてその救済にあずかるをえたりと。
人に捨てらるるは神に拾わるるなりき、
人に憎まるるは神に愛せらるるなりき、
人に絶たるるは神に結ばるるなりき。
今にいたりて思う、
わが生涯にありしことにして最も幸福なりしことは
世に侮られ、嫌われ、辱められ、斥けられしことにてありしことを。
★★★
私たちが心に抱く<最愛の我が子・我が分身>である【ビジョン:理想・夢・志】を目指そうとする時にも、世間的非常識と言われ、馬鹿と侮られ、家族や身内からも自分勝手と反対されることもあるでしょう。
しかし、【神の愛=主イエス】だけは、私たちが愛する【ビジョン:理想・夢・志】を理解してくれて、最後の最後まで最善・最強の真の友・理解者・支援者・導き手となってくれることは感謝感激です!ハレルヤ!
●人々が「失われた」と言うところで、神は「見いだした」と言い、
人々が「裁かれた」と言うところで、神は「救われた」と言い、
人々が「否」というところで、神は「然り」と言う。
人々がなげやりな気持や、高慢から、目をそらせるようなところで、
神は他のどこにもない愛のこもった目を向けるのである(ボンヘファー)
●人は表面のことを見るが、神は心中を見られる。人は行ないを考察するが、神は意図をおもんばかられる(トマス・ア・ケンピス)
●私たちは四方から患難を受けても、窮しない
途方にくれても、行き詰まらない
迫害にあっても、見捨てられない
倒されても、滅びない(コリント後書4-8~9)
●人に知られていないようで、認められ
死にかかっているようで、生きており
こらしめられているようで、殺されず
悲しんでいるようで、常に喜んでおり
貧しいようであるが、多くの人を富ませ
何も持たざるようで、全てのものを持っている(コリント後書6‐9~10)
皆さんが心に抱く【ビジョン:理想・夢・志】を目指す時に、<現実の困難>に直面しても、我らを支え導いてくださる【神の愛=主イエス】を体感して、<不屈の楽天主義・楽観論>の【パッション:受難覚悟の情熱・熱望・気迫】の心意気で突破して、【ミッション:使命・天職】を発見して<勝利の栄光>を信じ望みながら前進し続けることを心より応援しています!
●主は人の一歩一歩を定め、主は御旨にかなう道を備え、その行く道を喜ばれる。
人は倒れても、まっさかさまに倒されはしない。全く打ち捨てられることもない。
主がその手を助け支えられるからである。
若いときにも老いた今も、わたしは見ていない。
主に従う人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請い歩くのを見たことがない。
(詩篇37-23~25)
●人生をもっとも偉大に使う使い方というのは、人生が終わってもまだ続くような何ものかのために使うことである(ウィリアム・ジェームズ)
●人の一生は、どう生まれついたかではなく、どう生きるかで決まる(ベル)
●幾たびか辛酸を経て、志ははじめて固まるものだ。その志を貫くためには、
玉となって砕けることを本懐とすべきであって、志をまげて瓦となってまで、
生きながらえるのは恥とする(西郷隆盛)
★<玉>=価値あるもの[正義・名誉]⇔<瓦>=がらくた[生き甲斐の無いもの]
●人生の価値は、その長さとは関係がない。人生の価値とは、どのようにその時間を利用したかで決まるものなのだ。あなたが十分に生きたかどうかは、あなたが生きた年数ではなく、あなたがどのような意志をもって生きたのかで決まる(モンテーニュ)
●あなたがいるだけで世界は意味をもつし、生きている意味があると思わせる人生こそ最高だ(フランクル)
●あなたらしく生きる、そのための道は、後にも先にも二つだけです。一つは、奇跡などありえない、とする道。もう一つは、すべてが奇跡である、とする道(アインシュタイン)
●人生は大胆な冒険か、無か、そのどちらかだ(ヘレン・ケラー)
●至高の目標を持て、それが、将来の予言になる(ジェームス・アレン)
●運命を決定する神は、我々の内側に居る(ジェームス・アレン)
それでは今日も明日も素晴らしい人生をお過ごし下さい。
May grace and peace be with your spirit.
Good luck & God bless you!