◇◇<この世の子ら>は【光の子】より利口である(その1)◇◇<改訂版・再掲載>
【2005年10月5日に作成した<第388回>に加筆】
●この世の子らは、己が時代の事には、光の子らより巧みで利口である(ルカ伝16-8)
【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆さん、こんにちは!ご愛読に感謝します!
戦後60周年を迎えた現在、日本の政治・言論の中心では自国の尊厳と誇りを取り戻そうと
世間的には<少数派の立場>で懸命に努力しています。
日清・日露戦争から朝鮮併合、満州事変、支那事変、大東亜戦争、敗戦、極東軍事裁判へと
至る占領政策下に植え付けられた「自虐史観」を見直し、占領下の平和憲法・教育基本法を
改正しようとする言論・政治的ムードも起こり始めています。
一方、米国でも興味深い見直しが始まっています。それは、教育現場での「進化論」教育の
見直しを提唱する気運です。
【聖書】の歴史観に基づく【神の愛】による「天地創造」を科学的考察の立場で取り入れた
「インテリジェント・デザイン」という新たな<生命誕生の歴史観>です。
宇宙や生命の誕生は無秩序な偶然ではなく、<偉大なる知性>による【デザイン(創造>】が
関与しているという考えを「インテリジェント・デザイン」と定義する新たな価値観です。
教育現場において、この新たな価値観を公教育で教えることは「信教の自由」を阻害するか
否かについて論争が巻き起こり、米国連邦裁判で訴訟中であることが報道されています。
現代の日本では、過度な自己否定的な「自虐史観」や「米国占領政策支配」から日本民族を
精神的に自由独立解放したい!という気運が高まっているようです。
一方で米国は忘恩・背信的な「進化論」による「人類の自虐史観」から自由解放されたい!
という【パッション:受難覚悟の情熱・熱望・気迫】が起きています!
しかし国民の半数近くが教会に通い、80パーセントが宗教の必要性を認めている米国でも
公教育の場で【創造主:神の愛】と【御子:主イエス】による【天地創造】を公言する事は
抵抗感があり遠慮して【創造主・神の愛】については<偉大なる知性>と置き換えなくては
ならないことは残念なことです。
まさに【この世の勢力:富・権威・名声】にある多数派勢力【この世の子】の<利口さ>に
適応しようとした<妥協の産物>だと思います。
日本では「進化論」は科学的考察であって、疑問をはさむことなく【真理】と理解している
人々が<多数派>のように感じられますが、最近になってようやく日本の一部の科学者から、
生命の誕生や仕組みには「SomethingGreat(何物かの偉大な力)」の存在が不可欠である事を
提唱し始めています。
アメーバが突然変異と偶然と適者生存と弱肉強食の<摂理>だけで、サルになって、サルが
類人猿になって、類人猿が人間になれるのでしょうか?
私の先祖が「アメーバ」であるというなら、尊厳も誇りもないような<自虐的歴史観>です。
近年なって研究が進めば進むほどに、微細な単細胞のアメーバであっても、神秘的で精密で
充分に【完全美】であることが判明しています。
私たち人類のように無駄で無慈悲な勢力争いなど行わず、互いの【エゴ:自己保存】だけを
押し通そうとすることもなく、昼夜休むことなく、ただひたすら【地球生命体】を守る為に
【神の愛=隣人愛】に励んでいるようにも思われる「アメーバ」は傷つけられても、分裂を
繰り返しながら、不死身であり、【神の愛】の視点から観れば、私たちより<万全>であり、
下等というよりも、視点を変えれば、私たちよりも優れているではありませんか!
私たちが過去からの生命の進化を考えるのではなく、人間の完全理想である【主イエス】を
見習って私たちが未来に向け現実的不可能な【ビジョン:理想・夢・志】を目指す時にこそ、
「進化論」の考えかたは素晴らしい価値観となるのだと思います。
●なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞を得るために、
目標を目指してひたすら走ることである((ピリピ書3-13~14)
人類だけが<進化の頂点>にあるというよりも、あらゆる<生命体>は、種目ごとに各自の
【神の愛=隣人愛】を最善発揮できるための【ミッション:使命・天職】が与えられていて、
【神の愛=隣人愛】に生きる【ビジョン:理想・夢・志】と【ミッション:使命・天職】を
実現させる<手段>として、各自に託された未開拓の【タレント:個性・才能・可能性】を
発掘して磨き上げる事こそが<進化>の終局の姿であると思います。
●進化(evolution)とは開発、中に隠れたる者が外に顕れること(内村鑑三)
●内に誠あれば、必ず外に顕るる(二宮尊徳)
●あらゆる奥義と知識に通じていても、山をも移す強い信仰があっても、
もし、愛がなければ無に等しい。自分の全財産を人に施しても、
自分の体を焼かれるために渡してももし、愛がなければ、一切は無益である
(コリント前書13-1~2)
●【世界最大の者(内村鑑三)】
知識をもって腕力に克つべし
信仰をもって知識に克つべし
愛をもって信仰に克つべし
愛は進化の終局なり、最大の能力なり。
愛に達して我らは世界最大の者となるなり。
私たちが自尊心と誇りを取戻したければ、私たちが「どこから来て、どこへ向かう」か
理解することではないでしょうか。
【聖書】のおかげで、私を創造されて、誰よりも大切に愛してくれ、私の<最善>に
導いてくれて、私の全てを御存知である【神の愛=主イエス】に立ち帰ることこそが
私の人生目的であり、存在意義だと体感しています!ハレルヤ!
●わたしたちは自らの道を探し求めて主に立ち帰ろう(エレミヤ哀歌3-40)
●背信の子らよ、立ち帰れ。私があなた方の背信をいやそう(エレミヤ記3-22)
●遠くから、主は私に現れた。私は、とこしえの愛をもってあなたを愛し、
変わることなく慈しみを注ぐ(エレミヤ記31-3)
<この世>の初め・天地創造・万物の誕生には【神の愛=御子イエス】が関与しており、
【神の愛=御子イエス】から生まれており、私たち各自の人生において【御子イエス】に
信愛する事で【霊性:魂[勇気]・善意・良心】と【神の愛=隣人愛】を最善発揮できる
【ビジョン:理想・夢・志】に【ミッション:使命・天職】を発見して【御国・聖国】に
自己と<この世>を立ち帰らせることが<人生目的・存在意義>であると実感します!
●御子は、見えない神の姿であり、全てのものが造られる前に先立って生まれた方である。
万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座・位も
主権も、支配も権威も、みな御子において造られたからである。
万物は御子によって、御子のために造られたのである。御子は万物よりも先におり、
万物は御子によって成り立っており、支えられている(コロサイ書1-15~17)
●神は、御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を創造された
(ヘブル書1-2)
●最初に言葉(道)があった。言葉(道)は神と共にあった。
言葉(道)は神である。この言葉(道)は初めに神と共にあった。
全てのものは言葉(道)によってできた。できたもののうち、
一つとして言葉(道)によらないものはない。
この言葉(道)に光があった。そして、この命は人の光であった。
光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった(ヨハネ伝1‐1~5)
●そして、言葉(道)は肉体となり、私たちの内に宿った。私たちはその栄光を見た。
それは、父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた(ヨハネ伝1‐14)
●神はキリストを目的に、キリストに在りて、キリストをして、宇宙万物を造り給へり
(内村鑑三)
●神は愛なり、宇宙は愛の機関なり(内村鑑三)
●愛は神の霊としてこの世界に満ち満ちている(ヒルティ)
●神は時おり、自然の出来事や自然の事物を通して、私たちに話しかけることもある
(ヒルティ)
●世界が造られた天地創造の時から、目に見えない神の性質、すなわち神の永遠の力と
神性とは、被造物に現われており、これを通して神を知ることができる(ロマ書1-20)
●万物は、 神より出で、神によって成り、 神に帰する。
(すべては 神から、 神によって、 神のために存在する)
(すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている)
栄光がとこしえに神にあるように。アーメン (ロマ書11-36)
ところで、この単純明快な【御心:神の愛の意志と計画】は、世間的には非常識であって、
【この世の勢力:富・権威・名声】の中心では正当に扱われません。
【この世の子】らは利口であり巧みであり、自分たちの生活する<現世(生涯)>において
<勝利する道>を選んでいるからです。常に【この世の子】は【反キリスト】勢力であり、
たとえ<キリスト教会勢力>であっても、内側から科学技術信仰と共に強大化しています。
不完全である<既成キリスト教会組織・権威>の腐敗・歴史的横暴を否定するだけでなく、
真実の【神の愛】までをも否定してしまう【反キリスト】勢力が強大化している現代は、
いよいよ【終わりの時:主イエスの再臨】が近い証しです!
●子供たちよ、今は終わりの時である。反キリストが来ると、あなた方がかねて
聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。
これによって、終わりの時が来ていると分かります(ヨハネ第1書2-18)
●偽り者とは誰であるか。イエスがキリスト(救済主)である事を否定する者ではないか。
御父と御子を否定し認めない者、これこそ反キリストである。
御子を否定し認めない者は御父を持たず、御父と結ばれず、御子を公に言い表し
告白する者は、また御父を持ち、御父と結ばれている(ヨハネ第1書2-22~23)
★★【その2】につづく★★