【ビジョン&使命・天職】で<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>に導く【神の愛=主イエス】!!

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<非常識>を愛される【神の愛】!①

◇◇≪非常識≫を愛される【神の愛=主イエス】!(その1)◇◇
【2007年2月25日に作成した<第425回>に加筆】 
★★「徴税人ザアカイ(ルカ伝19-1~10)」の≪救霊・召命≫に学ぶ★★

皆さんもご存知とは思いますが、ローマ政府のために徴税人となっていたザアカイの
エピソードには興味深い【神の愛=主イエス】の啓示があると私は実感しています。

◆徴税人ザアカイ(ルカ伝19-1~10)
エスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。
この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
エスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて
見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。
そこを通り過ぎようとしておられたからである。
エスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。
 今日は、ぜひあなたの家に泊まることにしているから。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え入れた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。
「あの人は罪深い男のところに行って客となり宿をとった。」
ザアカイは立ち上がって、主に言った。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。
 また、だれかから何か不正な取立てをしていたら、それを四倍にして返します。」
エスは言われた。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
 人の子は、失われたものを尋ね捜し出して救うために来たのである。」

ザアカイはマタイと同様に、ローマ政府のために税金を取り立てる徴税人だったので、
同胞のユダヤ人から軽蔑されてとても罪深く、悪党のようにみなされていました。

たとえ世間的に金持ちであっても、自分の人生に疑問を抱き、「人生を変えたい!」と
日頃から願っていたはずです。

しかし、裕福な日常は居心地がよくて、しかも人生を変える方法も解らずに、
結局は日々流されていたのでしょう。

私がこのようにザアカイの人生を想像したくなるのは、ザアカイの<生き方>は私自身の
過去の人生にも共通するからです。過去の私自身も経済的にも健康面でも何不足なく、
自分勝手に、好き勝手に、自堕落な生活を送っていました。

しかし、精神的には何か空虚感があり、高額な自己啓発セミナーに参加したり、
高額な自己啓発テープを購入したり、比叡山千日回峰行者と寝食を共にしたり、
カリスマ指導者に助言をもらったりと、≪救霊≫を求めていたのです。

恐らくザアカイも現実に流されていても、本心ではいつも「人生を変えたい!」という
強い【ビジョン:理想・夢・志】を抱き、祈り願っていたに違いありません。

そんな哀れなザアカイの【ビジョン:理想・夢・志】も、【神の愛=主イエス】には
聞き届けられていたのです!ハレルヤ!

ザアカイは世間での素晴らしい評判を聞き「是非【主イエス】に一度会って見たい!」
と熱望していた時のことです。

自分の町にもやって来るという【神の愛=主イエス】の方から、無条件で一方的に
≪ビッグ・チャンス≫がやって来たのです!

【神の愛=主イエス】は、先ず「身ぎれいにしなさい!」「善行・献金を積め!」とか
特別な前提条件を要求しない証明ですね。

ザアカイは喜び勇んで町の通りに飛び出したことでしょう。
そこには、悩みや苦しみを抱えた大群衆がいました。

現実生活で何不自由なく、ただ「人生を変えたい!」というザアカイの悩みとは異なり、
現実の切実な病苦や貧困や危機に直面して耐え忍び、嘆き悲しむ、多くの群集によって、
通りは埋め尽くされていたことが想像できます。

苦悩に耐え忍ぶ群集に、日頃、軽蔑され<悪党>呼ばわりされていたザアカイですから、
充分に自覚していたことでしょう、自分よりも現実に悩み苦しむ彼等を押しのけてまで、
【主イエス】を見てやろうとまで思えなかったはずです。

現代でも通じる常識ですが、福祉医療や慈善・宗教活動など、救済の順番で考えるなら、
一番後回しにされるような「悩み」だといえるでしょう。ザアカイの悩み苦しみなどは、
世間的常識で見れば、まったく贅沢な悩みだからです。

そこで、誰にも理解されない哀れなザアカイはどうしたのでしょうか?
ザアカイは≪非常識≫な手段を思いつき実行したのです。
そこまでザアカイに行動を取らしたのは、彼もまた、世間的には理解されないながらも、
長い間、苦しみ悩んできた証明ですね。

「一目見るだけでもいい!」という熱き願いが木によじ登るという世間的≪非常識≫な
決行を生みますが、この決断と実行こそが【神の愛=主イエス】に見出されるという、
素晴らしい<救霊>に導かれたことは、私にも励ましと勇気と希望を与えてくれます!

【主イエス】は街頭に溢れる現実に悩み苦しむ大群集を見て、誰を選んだかというと、
木によじ登っていた悪党のザアカイを、名前を呼んで、特別に選び、寝食を共にする
約束までしてくれたのです!ハレルヤ!【神の愛=主イエス】の恵みに感謝します!

人間愛や人道(ヒューマニズム)では決して納得できない<不思議な選択>だったことは、
現代でも共通する感想でしょう。

リビング・バイブル訳では【主イエス】の選択に対して、とても納得できない人々の
痛烈な批判感情が示されています。

●これを見ていた人々の心中は、おだやかではありません。
 「なにも、あの札つきの悪党の家の客にならなくても……」と、
 ぶつぶつ文句を言いました(ルカ伝19-7)

ここにも人間愛や人道・人智だけでは、到底計り知れない【神の愛=主イエス】の
【御心:聖意・聖旨】や≪真理:愛と正義≫が示されていることに私は感動します。

●私(神)の思いはあなた方の思いと異なり、私の道はあなた方の道と異なる。
 天の地よりも高いように、私の道はあなた方の道より高く、
 私の思いはあなた方の思いよりも高い(イザヤ書55-8~9)
●私(主)がしていることは、今あなたにはわからないが、
 あとでわかるようになるであろう(ヨハネ伝13‐7)
キリスト教は信を先にして、行いを後にするものなり。天の地よりも高きがごとく、
 神の意は人の意より高し(内村鑑三

私の理解では、日々直面する≪患難辛苦≫に悩み苦しんで<被害者意識>に陥っている
≪大群衆≫を救済するためには、<ザアカイの救霊>も<最善の方法>と言うことです。

ザアカイのように、精神的なな現実問題に直面して、自己の罪悪や弱さを痛感して、
「俺はダメな奴だから何とか人生を変えたい!」と<加害者意識>から強烈な願いを
抱く<少数>の、世間的に≪悪党・罪人≫を救済することを【神の愛=主イエス】は
先ずは選ばれるのだと思います。

自業自得で堕落腐敗して、たいした自浄努力も善行もしていない日々を送っているので、
「こんな俺なんかどうせ後回しだ・・・」と自覚している≪加害者≫を最優先してくれて、
「ザアカイ!」と直に名前まで呼んでもらい、それだけでなく思いもしなかったような
≪格別の計らい:祝福・救霊≫までしてもらったなら、彼はどうなるでしょうか?

彼の人生は【神の愛=主イエス】によって<コペルニクス的大転換>されるでしょう!

マタイやパウロや『レ・ミゼラブル(ああ無情)』の主人公ジャン・バルジャン
私自身もそうですが、【神の愛=隣人愛】のおかげで≪人生大転換!≫させられて
【神の愛=主イエス】と熱烈夢中な<相思相愛の関係>で結ばれることができます!

●だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、
 私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。
 (ルカ伝7-47)
●今の私があるのは、ただひとえに、あふれるほどに注がれた神様の恵みと、
 あわれみとのおかげです。実際に働いたのは私ではありません。
 神が私の内部で働き、祝福してくださったのです(コリント前書15-10)
●魂の喜びにまさる喜びなし。これによりて枯骨もなお芽をふく。
 この喜びを我が主は常に我らのために増したもう(ヒルティ)
●我らのなお亡びざるはエホバの仁慈(イツクシミ)により、あわれみの尽きざるによる
 (エレミヤ哀歌3‐22)
●主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
 主は渇いた魂を満ち足らせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださった
詩篇107-8~9)
●愛に生きる者には翼がある。喜びに溢れて走り回り、自由で、
 どこにあっても束縛を知らない。自分に与えられる贈り物には目を留めず、
 すべての賜物を越えて、それを与えてくださる方に目を向ける。
(トマス・ア・ケンピス)

多くの人道的・慈善的・宗教的活動が行き詰まるのは≪被害者≫ばかり注目するために
≪加害者≫を後回しにしているからだと感じます。

【神の愛=主イエス】は最悪最強の≪加害者:罪人≫の救済を最優先してきたからこそ、
どんな弾圧・迫害があろうと途絶えずに【キリスト精神:自由・平等・寛容・博愛】は、
今日もなお光り輝き成長し続けているのだと確信できます。

●イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。
 私が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである
 (マタイ伝9-13、マルコ伝2-17、ルカ伝5‐32)
●「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来て下さった」という言葉は、確実で、
 そのまま受け入れるに値するものである(テモテ第1書1-15)
●この方(主イエス)こそ、私たちの罪のため、いやそればかりでなく、
 全世界の罪のためのあがない(身代わり)の供え物である(ヨハネ第1書2-2)
●神はキリストによって、私たちをご自分に和解させ、かつ和解の務めを私たちに授けて
 下さった。即ち、神はキリストにおいて世をご自分と和解させ、人々の罪過の責任を
 問うことなく、和解の福音を私たちに委ねられたのである(コリント後書5-19)
●私がこの世に来たのは、さばくためである。すなわち見えない人たちが
 見えるようになり、見える人たちが見えないようにするためである(ヨハネ伝9‐39)
●人の子(救世主)が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである
 (ルカ伝19‐10)
●私は失われたものを捜し、迷い出た者を連れ出し、傷ついた者を包み、病気の者を
 力づける。私は肥えた者と強い者を滅ぼす。私は正しい裁きを持って彼等を養う
 (エゼキエル書34‐16)
●父がその子に対してするように、あなた方の一人一人に呼びかけて、神の御心に
 そって歩むように励まし、慰め、強く諭し勧めたのである。御自身の御国と栄光に
 預からせるようと、神はあなた方を招いておられる(テサロニケ前書2‐11~12)
イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも永遠に変わることがない(ヘブル書13-8)
●主義にあらず、性格なり。教理にあらず、生命なり。
 キリスト教にあらず、キリストなり(内村鑑三
●聖書は古いものでもなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のものである(ルター)

★★【その2】につづく★★