◇◇【オンリー・ワン】を発揮させる【自主独立】⇔【神の愛】の争奪競技(その1)◇◇
【2004年6月25日に作成した<第336回>より】
●競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ栄光は得られない
(テモテ後書2-5)
●私たちはこのように多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、
一切の重荷とからみつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの参加すべき競争を
耐え忍んで走りぬこうではないか。
信仰の導き手であり、また、その完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、
走ろうではないか(ヘブル書12‐1~2)
●後のものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り
キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与(栄光)を得ようと努めて
いる(ピリピ書3-13~14)
●あなた方は知らないのか、競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者は
ひとりである。あなた方も賞を得るように走りなさい(コリント前書9‐24)
以前も紹介したように【競争】の語源である「competent」の本来の意味は
「共に求める ⇒ 一致する ⇒ 適する ⇒ 適任者として有能である」
つまり、競争の本来の目的とは「誰が最適であるかを決めること」であるといえます。
もし、【愛する力】の競争をするとして、誰が【適任者】であるかを決定できるのは
【神の愛】なる【主イエス】こそが判定者として最も適任であることは明らかです。
●愛は神より出づ(ヨハネ第一書4‐7)●神は愛なり(ヨハネ第一書4‐8)
●神は愛なり、宇宙は愛の機関なり(内村鑑三)
【信じる力:信仰・信念】で競争するならば、現代社会でみられるように原理主義の
教義解釈の対立や信じる「大義」の競争で激しく対立することは想像できるでしょう。
誰が適任者かを判定するのを【この世の権威・富・名声】に頼っても本当の適任者は
見出せないほどに、【信じる力】を見分けることは困難だといえるでしょう。
宗教や信仰が忌み嫌われる大きな理由は、まさにこの「信仰競争」にあると思います。
同じキリスト教でも分派対立して行き詰まりにあるのも「信仰競争」が背景にあると
感じます。
ワーグナーの作曲した楽劇「タンホイザー」でも、苦難の末ようやくタンホイザーが
信仰に目覚めたのに、教会権威である法王ですら彼の【正しき信仰】を見分ける事が
できなかったというストーリーであったと思います。
私自身にも通じる過去の背信的で放蕩息子であり神に背を向けた【生き方】が赦せず、
【神の愛】に導かれて生まれ変わった新生タンホイザーを世間は見ぬけませんでした。
●神は善きを視るに敏くして、悪魔は悪を探るに巧みなり
神は奨励する者にして、悪魔は失望せしむる者なり(内村鑑三)
●神の神たるは人の善きを思うて悪しきを思わざるにあり。
悪魔たるは人の悪しきをのみ思いえて人の善きを思いえざるにあり
●人の心を見て慈悲をもて、行いだけを見て責めるな(キングスレー)
「彼の信仰が正しかったら、この杖から芽が生えるであろう」とまで最後通告されて
教会から破門され世間から見捨てられた哀れなタンホイザーが苦悩の中で死んだ時に、
何と法王の杖から芽が生えてきたではありませんか!同志タンホイザーに祝福あれ!
●人に知られていないようで、認められ
死にかかっているようで、生きており
こらしめられているようで、殺されず
悲しんでいるようで、常に喜んでおり
貧しいようであるが、多くの人を富ませ
何も持たざるようで、全てのものを持っている(コリント後書6‐9~10)
ところで、世界に【オンリー・ワン】の私たちが【オリジナリティ・自分らしさ】で
独自性を最善発揮する場合でも【神の愛】から見れば、一種の競争であると思います。
競うべきものは全身全霊で生涯を捧げ挑戦し続ける【神の愛=隣人愛】の争奪戦です!
ルールは先ずは【神への愛】を示すことによって【隣人愛】に至れ!という勝負です。
●最も重要な掟
★心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくし、
主なるあなたの神を愛せよ。
★自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。
(マタイ伝22‐37~39、マルコ伝12‐30~31、ルカ伝10~27、申命記6‐5)
●我等は愛せられんと欲するも愛せられず、しかれども愛するは我等の自由なり
(内村鑑三)
●神への愛だけが我々を徹底的にエゴイズムから解放する事ができ
またすべての本当の自己改革の始まりである(ヒルティ)
●いわゆる人間愛は、すべて神に対する強い愛という根底がなければ
単なる幻想である(ヒルティ)
●愛さない者は神を知らない。神は愛なればなり(ヨハネ第1書4‐8)
●神が喜ばれるのは、おそらく神へのひたすらな憧れと、神に向かって
手をさしのべることだけであろう(ヒルティ)
●神の御心にかなうことを求め行なう以上に快い気分を覚えさせ
喜びを与えるものはない(トマス・ア・ケンピス)
明治初期に武家に生まれた山下りんというイコン画家の紹介をTVの歴史教育番組で
初めて知り感動しました。
彼女は「生来、画を好む」と自ら語るように絵画をこよなく愛する少女でありました。
16歳頃に父親に猛反対されると家出をして、絵画で身を立てるためにと上京します。
この山下さんが日本の女性第1号の美術学校の学生になったということは感動的です。
時代の希望の星であり【先駆者】である者は常に【愛のヒロイン&ヒーロー】です!
たとえ【この世の富・権威・名声】に全く無縁で、家族・身内の無理解にあろうとも、
新たな時代を拓く【先駆者】にとって最も必要不可欠な事は【愛好心】であるという
【神の愛の啓示】だと私は実感できました!ハレルヤ!主に栄光を帰します!
私たちも幼い頃の【青年の心】に抱いた素直な【愛好精神:dilettante】を大切にして
いつでも【有名無力・無名有力】の【レイマン・スピリット(素人根性)】を喜びとして
【レイ・エキスパート(Lay Expert)⇔非専門家の熟練者】である【精神的自由】こそが
【神の愛】争奪戦に勝利するには欠かせない資格・条件であることを信じましょう!
●しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためで
なく、本心からそれをなしなさい(ペテロ第1書5-2)
●各自は惜しむ心からでなく、また、強いられてでもなく、自ら心で決めたとおりに
すべきである。神は喜んで施す人を愛してくださるのである(コリント後書9-7)
●野心からも、単なる義務感からも、本当に価値あるものは生まれてきません。
本当に価値あるものは、むしろ、人や事物を深く愛する心から生まれてくるのです。
(アインシュタイン)
●人間のうちに善をのばしてやり、彼らの心に善に対する愛好心を注ぎ込むことが
必要である(ヒルティ)
●自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として
用いず神の僕にふさわしく行動しなさい(ペテロ第1書2‐16)
★★【その2】につづく★★