◇◇毎日がオリンピック気分に導く【神の愛=主イエス】!①◇◇
【2012年8月14日に作成した<第595回>に加筆】
【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆様こんにちは!ご愛読に感謝します!
世界各国で愛読されている皆様、お元気ですか?ご活躍を心より応援しています!
日本中が4年に一度のオリンピック観戦で2週間熱狂させられました。
選手たちが競技種目に<全生・全身・全霊>を投じて競い合う姿に感動したり、
私自身の人生における挑戦意欲を駆り立て勇気付けられ励まされます。
私自身は(恐らく)オリンピック選手として競技に参加出場する事は不可能ですが、
【神の愛=主イエス】主催の【神の愛の特訓:オーディション!リハーサル!】なら、
いつでも何度でも選手として競技に参加することができます。
【聖書】には【競争・競技】という言葉が何度か使われています。
【競争】には勝利を目指して勝ち抜く「弱肉強食」や「優勝劣敗」の苛酷さを
感じさせます。
しかし、【競争】の語源である「competent」の本来の意味を考えてみると、
多少ニュアンスが異なるようです。
「共に求める ⇒ 一致する ⇒ 適する ⇒ 適任者として有能である」
つまり、競争の目的とは「誰が最適であるかを決めること」であるともいえます。
【神の愛=主イエス】の【神の愛の特訓:オーディション!リハーサル!】とは
【神の愛=主イエス】が定める<競技種目>【ミッション:大義・使命・天職】に
各自が<適任者>として表彰され<召命>されるための競争であり、まさしく
世界を舞台に【神の愛の事業=隣人愛&奇蹟】に参戦するオリンピックです!
●あなたが私を選んだのではない、私があなたを選んだのである
(ヨハネ伝15-16)
●いつも神の御意(御心)がお前に欠けるところがなく成就されるように願い、
かつ、祈りなさい(トマス・ア・ケンピス)
●あなた方は知らないのか、競技場で走る者は、みな走りはするが、
賞を得る者はひとりである。あなた方も賞を得るように走りなさい
(コリント前書9‐24)
【神の愛=主イエス】主催の【神の愛の特訓:オーディション!リハーサル!】である
オリンピック競技のルールは、【神の愛=主イエス】が私たちの心に書き記してくれた
<キリストのLOVEレター>【ビジョン:理想・夢念・大志】を<人生の旗印>に
高く掲げて、自力本願でなく【神助精神:神助主義・神助本願・神助努力】で
【神の愛=主イエス&聖霊】の【御心:聖意・聖旨】と共に走り抜くことです。
●競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ栄光は得られない
(テモテ後書2-5)
●あなた方の内に働きかけて、御心のままに志望を起こさせ、
かつ実現に至らせるのは神であって、それは神が善しとされるところだからである。
何事も、つぶやかず疑わないで(不平や理屈を言わずに)行いなさい
(ピリピ書2-13~14)
●【キリストの手紙】
汝らは我らの職(ツトメ)により書かれたるキリストの書(フミ)なり、
しかも墨にあらで活ける神の御霊に記され、
石碑にあらで心の肉碑に記されたるなり(コリント後書3-3)
●私の律法を彼等の心に与え、彼等の思いのうちに書きつけよう(ヘブル書10‐16)
●モーセは言った。「主が私を遣わして、これら全ての仕業をさせられたので、
私が自分の心に従って自分勝手に行なったのではない(民数紀略16-28)
●たとえバラクが、家に満ちるほどの金銀を私に贈与してくれても、
主の御言葉に逆らっては、善にしろ悪にしろ、私の心のままにすることはできません。
私は、主が告げられることを告げるだけです
(民数紀略24-13)
●私は、自分からは何事も行なうことができません。ただ父から聞くままに審判する。
私の審判は正しい。私自身の意志や願望を求めず、
私を遣わした方の【御心:聖意・聖旨】を求めるからである(ヨハネ伝5-30)
●私が天から降って来たのは、自分の心のままに行うためではなく、
私をお遣わしになった方の御心を行うためである(ヨハネ伝6-38)
●私にはヨハネの証しにまさる証しがある。
父が私に成し遂げるようにお与えになった業、
つまり、私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになった事を証ししている
(ヨハネ伝5-36)
【神の愛=主イエス】は私たちの<競技種目>【ミッション:大義・使命・天職】が
決勝戦まで勝ち抜けるように、【神の愛の特訓:オーディション!リハーサル!】の
<予選リーグ:試練>が<神助:祝福・恩恵>として万全に準備されているので、
たとえ連戦連敗でも、私たちが求める限り、いつでも何度でも<敗者復活戦>で
<患難辛苦><邪魔勢力:つまずきの石・妨げの岩・仕掛け罠>に立向かって
挑戦し勇進し続けることができます!
●私たちは四方から患難を受けても、窮しない
途方にくれても、行き詰まらない
迫害にあっても、見捨てられない
倒されても、滅びない(コリント後書4-8~9)
●人に知られていないようで、認められ
死にかかっているようで、生きており
こらしめられているようで、殺されず
悲しんでいるようで、常に喜んでおり
貧しいようであるが、多くの人を富ませ
何も持たざるようで、全てのものを持っている(コリント後書6‐9~10)
●木には望みがある。たとい切られてもまた芽を出し、その若枝は絶える事がない。
たといその根が地の中で老い、その幹が朽ちて、根株が土の中に枯れても、
水気にあえば芽をふき、苗木のように枝を出す(ヨブ記14-7~9)
ご存知のようにミス・ジャッジや不正判定は勝敗を左右するので、最近の競技では
判定に「異議申立て<CHALLENGE>」できる種目が増えて来ました。一方で、
【神の愛=主イエス】が審判では、世間的非常識であろうと、過去の失敗・実績も
無関係に社会的・経済的・精神的・肉体的に<不義・不正・不実>であっても
ただ我が【霊性:魂[勇気]・善意・良心】に従って<本心・本領・本分>に抱く
<最愛の我が子・我が分身><人生の旗印>【ビジョン:理想・夢念・大志】を
分け隔てなく公平に評価し判定してくれるので安心して思う存分に挑戦できます。
●神の神たるは人の善きを思うて悪しきを思わざるにあり。
悪魔たるは人の悪しきをのみ思いえて人の善きを思いえざるにあり
●人の心を見て慈悲をもて、行いだけを見て責めるな(キングスレー)
●神は善を視るに敏くして、悪魔は悪を採るに巧みなり。
神は奨励する者にして、 悪魔は失望せしむる者なり(内村鑑三)
●神は人を分け隔てはしない(ロマ書2-11)
●神はその独り子を賜うほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである
(ヨハネ伝3-16)
●律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
しかし、今や神の義が律法とは別に、
しかも律法と預言者とによって証しされて現われた。
それはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、
すべて信じる人に与えられるものである。
そこには何らの差別もない(ロマ書3-21~23)
【神の愛=主イエス】主催の【神の愛の特訓:オーディション!リハーサル!】である
オリンピック競技は、目先の成功・勝利を計画して挑戦すると言うよりも、まずは
<最愛の我が子・我が分身>【ビジョン:理想・夢念・大志】を<人生の旗印>に
高く掲げて、私自身の<人生目的・存在意義>【ミッション:大義・使命・天職】を
発見して体得して最後の最後まで突っ走ることが最終ゴールだと実感できます。
●求むべきものは成功にあらずして正義なり。
避くべきものは失敗にあらずして、罪悪なり。
正しからんと計るものは、敗(ヤブ)るるも成らん。
功を遂げん欲するものに、身を汚辱の淵に沈むるの危険はなはだ多し。
ゆえにもし計画すべくんば正義を計画せよ、成功を計画するなかれ(内村鑑三)
●自分の決められた道を走り通し、また、主イエスから戴いた、神の恵みの福音を
力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して
惜しいとは思いません。<最も大切なことは、自分の使命、すなわち主イエスが
私にお与えになった働きを全うすることです>(使徒行伝20-24)
●人間の第一職分は、自家の天職を探求するのが第一で、
其天職をどこまでも遂行するのが第二の本分であろう(徳富蘆花)
●ある人の生涯における最大の日とは、その人の歴史的使命、すなわち
神がこの世で彼を用いようとするその目的が明かにわかり、また、
これまで彼が導かれてきたすべての道がそこに通じているのを悟った
日のことである(ヒルティ)
●神の御心にかなうことを求め行なう以上に快い気分を覚えさせ
喜びを与えるものはない(トマス・ア・ケンピス)
●人の最大発見物は天職なり。これを知らずして彼の人生は無意味なり
(内村鑑三)
★★【その2】につづく★★