(マルコ伝5-21~43ルカ伝8-40~56、、マタイ伝9-18~26)
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立た ず、ますます悪くなるだけであった。
イエスのことを聞いて、群集の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
「この方の服にでも触れれば癒していただける」と思ったからである。
すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、
「わ たしの服に触れたのは誰か」と言われた。
そこで、弟子たちは言った。
「群集があなたに押し迫っているのをお分かりでしょう。
それなのに『だれがわたしに 触れたのか』とおっしゃるのですか」
しかし、イエスは、触れたものを見つけようと、辺りを見回しておられた。
女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、
すべてをありのまま話した。
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。
もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
上記の有名なエピソードには、肉体的・精神的・経済的・社会的に行き詰まり、死にかけるほどの絶望的状況に直面した時に、何が必要であるかを教え示している事が実感できます。
●私は耐え忍び、切なる思いで、主のみを待ち望んでいた。
主は私の方に身を傾けて、私の叫びを聞かれた。
滅びの穴、泥沼から私を引き上げ、私の足を岩の上に立たせ
私の歩みをしっかりと確かにされた。
主は私の口に、新しい歌を、我らの神への賛美を、授けられた。
人はこぞって主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主に依り頼む。
いかに幸いなことか、主に信頼し、
高ぶる者や、欺きの教えや、偽りに陥る者たちの方に向かなかった、その人は。
我が神、主よ
あなたがなさった不思議な業と我らを思う御計りは数知れず多く
あなたに並ぶ者はありえない。
私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせない。
あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、
焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず、ただ、私の耳を開かれた。
(詩篇40-1~6)
たとえ私たちが、【神の愛=主イエス】でなくて世間に頼り切って、自業自得の結果として<無一物>になったとしても、最後の最後に【神の愛=主イエス】に助けを求めすがる【パッション:受難覚悟の情熱・熱血・気迫】さえあれば、<神助:祝福・恩恵>と【神の愛の奇蹟】によって、人生大転換できることは<歓喜!感動!感謝!>です!
●主よ、私の言葉に耳を傾け、うめき、嘆きを聞き分けてください。
私の王、私の神よ、助けを求める叫びの声に心に留めてください。
あなたに向かって祈ります。
主よ、朝ごとに、私の声を聞いてください。
朝ごとに、私は御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。(詩篇5-2~4)
皆さんが心に抱く【ビジョン:理想・夢念・大志】を掲げることで、現実生活で直面する大小様々な<患難辛苦>によって肉体的・精神的・経済的・社会的に行き詰まった時には、<いつも一緒!>の【神の愛=主イエス】がいてくれるので心配御無用です!
●神が私たちに求め給うのは、わたしたちと共にいますこと、神に心を寄せる者を見出し、その心を神みずからの霊によってさらに育て、かつ生き生きとさせること、これ以外の何ものでもない(ヒルティ)
●私はあなた方に悟りを与え、行くべき道を教えよう。私はあなた方に目を留めて助言を与えよう(詩篇32-8)
皆さんが最後の最後には【神の愛=主イエス】に助けを求めよう!という【パッション:受難覚悟の情熱・熱血・気迫】を大切に守り育てて、【ビジョン:理想・夢念・大志】を<人生の旗印>に高く掲げて活躍される事を心より応援しています!
●汝の道を主にゆだねよ、
主に信頼せよ、
主はそれをなしとげ
光のごとく汝の義をあきらかにし、
真昼のごとく汝の訴えをあきらかにし給わん(詩篇37-5~6)
●主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれる
(詩篇23‐3)
(詩篇23‐3)
●信者の生涯は、
始めは悪く終りは善くある。
終りにちかづくほど、ますます善くある。
生命(いのち)の夕暮になればなるほど、
彼はなにものか、彼の心の奥深き所に結実しつつあるを感ずる。
人あり、彼に、その生涯の中に最も愉快なりし時はいつか?と聞くならば、
彼は常に今なりと答うるのである。
そうして彼の最後(ラースト)が最善(ベスト)である(内村鑑三)
それでは今日も明日も素晴らしい人生をお過ごし下さい!
May grace and peace be with your spirit.
Good luck & God bless you!