【2022年7月10日に作成した<第753回>に加筆】
◇◇【ビジョン】で<信仰的霊的成長>に導く【神の愛=主イエス】!◇◇
【神の愛=主イエス】に大事にされ大切なる皆様こんにちは!ご愛読感謝します!
世界各国で愛読されている皆様、お元気ですか?ご活躍を心より応援しています!
精神苦・病苦・経済苦・社会苦など大小様々な<患難辛苦>に直面し立ち向かう
<対戦・応戦・抗戦>意欲に導びく<最高!最善!最美!>の<無限の源泉>が
【神愛福音道】【聖書価値観】<神愛価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観>の
【神の愛=主イエス&聖霊】が与えてくれる【神愛力=隣人愛&神愛奇蹟】です!
【神愛福音道】【聖書価値観】<神愛価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観>の
【神の愛=主イエス】への【信仰精神:信愛・信頼・信従】の霊的成長は日々新たです。
【信仰精神:信愛・信頼・信従】は【神愛礼拝:★讃美★祈求★感謝】だと実感します。
最初は<祈り>は戒律的義務感でしたが、今は人生には欠かせない<神愛特権>です!
<万事・万物・万象>の創造主である<全智・全能・全愛>【神の愛=主イエス】に
いつどこでも無条件で私の勝手な都合で直接近づいて何でも祈り願い訴え相談できて
しかもこんな私でも毛嫌いせず馬鹿にせず無視せず全てを聞き入れて下さるという事は
何という素晴らしき【賜物・無償ギフト・神恵】<神愛神助:祝福・恩恵>でしょうか!
●あなた方がわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなた方に聞こう。
もし、あなた方が心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
わたしはあなた方に見つけられる(エレミヤ記29-12~14)
●何事も思いわずらってはならない。ただ事々に感謝と祈りと願いとをささげ、
あなた方の求めるところを神に申し上げるがよい(ピリピ書4‐6)
●思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。
神があなた方のことを心にかけていて下さるからでる(ペテロ前書5-7)
【信仰精神:信愛・信頼・信従】が霊的成長すると【ビジョン:理想・夢望・念志】は
【神愛力=隣人愛】に光輝き【霊性:魂[勇気]・善意・良心】を大満足させるならば
<大確信:必勝・必決・必現>【大希望:聖望!聖願!聖欲!】に満たされ導かれながら
此の世で実現しなくても<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>で実現することが
素直に実感できるようになります。
●信仰を、どう定義したらよいでしょう。
それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。
また、何が起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことが
必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです(ヘブル書11-1)
●信仰とは望む所を疑わず、未だ見ざる所を信じ拠り所とすることなり。
(ヘブル書11‐1)
●イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、
疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、
この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、
そのとおりになる。 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
(マタイ伝21-21~22、マルコ伝11-12~14、20~24)
●主は言われた。「もしあなたがたに、からし種一粒ほどの信仰があったなら、
この桑の木に『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば
言いつけどおり(言葉通り)になる (ルカ伝17ー6)
さらに<最愛の我が子・我が分身>【ビジョン:理想・夢望・念志】を<人生の旗印>に
掲げ続けるなら【神の愛=主イエス】は【神愛礼拝:★讃美★祈求★感謝】に応答して
【インスピレーション・神愛の息吹】<神愛の智恵:聖書観力・霊感力・直観力>を
私の思いに与えてくれて<神愛神助:祝福・恩恵>【神愛奇蹟】が連発します!
●「祈りの法則」(ウィリアム・バークレー)
「希望と信頼に生きるウィリアム・バークレーの1日1章」
祈っても効き目がないと考えて祈るのをやめてしまう人が非常に多い。
だがそれは祈りについての誤った考えを持っているからである。
祈りには祈りの法則がある。
第1法則 祈りは神がわれわれのためになにかをなさることではなく、
われわれ自身がやれるように助けてくださることである。
第2法則 祈りは状況を変えず、われわれを変える。
状況は前と変わらない。
だが、私たちは新しい勇気と新しい力と
それに取り組む新しい能力をとをもって、
その状況に対応できるのである。
第3法則 祈りは逃避ではなく、征服である。
祈りは私たちを助けて困難な立場から
逃れさせてくれるからくりではない。
祈りは私たちをつけて困難な状況に直面させ、
これを征服させ、
あるいはこれに耐える力を与えてくれるものである。
第4法則 祈りは神に語るというよりもむしろ神に聞くことである。
祈りはむろん語ることから始めなければならないが、
常に聞くことでもって終わらなければならない。
祈りとは文字通り、
「神よ、あなたは私がなにをやることをお望みですか」
ときくことである。
他者のために祈るとき、その祈りにみずから応えるべく努力しなければならない。
私たちは思いがけないほどに、自分の祈りに自分で答えることができるのである。
「人を助けてあげられるようにお助けください」これが最善の祈りである。
【信仰精神:信愛・信頼・信従】が霊的成長すると【神愛自立:神愛自由・神愛独立】に
導かれて世間体や此の世的常識や戒律的儀式的信仰からも霊的解放してくれます。
【神愛福音道】【聖書価値観】<神愛価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観>の
【神の愛=主イエス】への【神愛礼拝:★讃美★祈求★感謝】は決り文句や祈祷文不要で
自由に語ることが許されています。しかし私はどうしても<主の祈り>や決り文句からは
未だ完全に自由にはなれません。それでも<信仰的新たな創造>が与えられ続けています。
●割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。
大事なのは新しい創造です(ガラテヤ書6-15)
当初の【礼拝:★讃美★祈求★感謝】は「~して下さい/~なりますように」などの
<直訴:泣き言・陳情・苦情>的お願い口調でしたが、私が祈り願う前からご存知の
【神の愛=主イエス】の<先回りの神愛>に応答した「~して下さり感謝します!」と
<先取り神愛感謝>で【神愛礼拝:★讃美★祈求★感謝】するように神愛創造されて
<アーメン!ハレルヤ!主に感謝!>GLORY JESUS KINGDOM!に行き着きました。
●あなた方の父なる神は、あなた方がお願いする先に、
あなた方に必要なものを知っておられる(マタイ伝6-8)
●汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ(マタイ伝6-8)
●彼らが呼ばないうちに私(主)は答え、彼らがまだ語っているうちに私は聞く。
(イザヤ書65‐24)
●<信者の祈祷>(内村鑑三)
わが祈祷が聞かるるのではない。
神がわれをもって祈りたもう祈祷が聞かるるのである。
信者にありて祈祷は祈願(ねがい)ではない。預言である。
神が神に求めたもう祈祷であれば、必ず遂行せらるるべきものである。
信者の祈祷は必ず聞かるというはこの事である。
神がなさんと欲したもう事を、あらかじめ、
われをして彼に求めしめたもう、その事が祈祷である。
ゆえに言う、
「われらは祈るべきところを知らず、されども聖霊みずから言いがたきの嘆き
(熱心)をもて、われらのために祈る(ロマ書8-26)」と。
●真の祈りはただの祈りではない。一種の預言である。即ち必ず成就すべき事を
前もって語に表することである(内村鑑三)
●わが祈祷が聴かれないと言う時に、祈祷以上が聴かるるのである。
祈祷が聴かれないのではない。我等が祈求むるところ、
思惟うところよりもいたく過(まさ)りて聴かるるのである(内村鑑三)
プロテスタント系は偶像崇拝と片付けがちのカトリックの<マリア信心>ですが
私は人生どん底で「心のともしび運動」創設者のハヤット神父との出遭いによって
<不思議のメダイ>に救われた経験があります。今でも肌身離さず着けています。
歴史的に世界中の信仰者が守り続けた【礼拝:★讃美★祈求★感謝】には意味があり
今の私は聖母マリアは私たち各自の<守護天使・御使い>の体現だと感じています。
●あなたは主を避け所とし、いと高き方をあなたの住まいとしたので、
災難はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
これは主があなたのために御使い<天使たち>に命じて、あなたの道のどこにおいても
あなたを守らせられるからである。
彼らはその手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ちつけられないように守る。
(詩篇91-9~12)
●御使<天使>たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、
つかわされたものではないか(ヘブル書1-14)
そこで<不思議のメダイ>に託されたという祈祷について新たな創造を加えてみました。
<原文>
●原罪なくして、やどり給いし聖マリア、
御身に依(よ)り頼み奉る
我らのために祈りたまえ
アーメン
<新たな創造>
●原罪なくして、やどり給いし御子イエス/守護天使
御身に依(よ)り頼み奉る
我らに祝福感謝!
アーメン
私は日本の神社にも信仰的新たな創造で【神の愛=主イエス】に立ち帰る<羊の門>と
霊的解釈しています。靖国神社でも英霊が【神の愛=主イエス】へ立ち帰るようにと
【神愛礼拝:★讃美★祈求★感謝】を捧げながら神愛参拝しています。
●はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を
乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、
羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
(ヨハネ伝10-1~3)
●イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。私は羊の門である」
(ヨハネ伝10-7)
●私は門である。私を通って入る者は救われる。
その人は、門を出入りして牧草を見つける(ヨハネ伝10-9)
●善き音信(オトズレ)をシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。
善き音信をエルサレムに伝える者よ、力の限り強く声をあげよ、
声をあげて恐れるな。
ユダのもろもろの町に言え、「あなた方の神を見よ」と。
見よ、主なる神は大能をもって来られ、その御腕は世を統治される。
見よ、主の勝ち取られたものは主と共にあり、
そのはたらきの実りは、主の御前にある。
主は牧者(羊飼い)のように、その群れを養い、
御腕でもって小羊を集め引き寄せ、ふところに抱き入れて携えゆき、
乳を飲ませている母をやさしく導かれる(イザヤ書40-9~11)
ヨーローッパ民族が民族原始宗教に接ぎ木して<西洋キリスト教>を産み出したように
我ら日本民族も原始宗教に接ぎ木した<信仰的新たな創造>で既存キリスト教を超えた
【神愛福音道】【聖書価値観】<神愛価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観>の
<全智・全能・全愛><いつも一緒!>【神の愛=主イエス】を見出す事を期待します!
●キリスト教を純日本人のものとなし、これをもって日本を救い、
かつ世界における日本国の使命を果たさしめん(手島郁郎)
●聖霊の恩化に浴した大和島根が、地球の祭壇として選ばれ、
世界の光たるべき光栄を担うにいたるべきことは、
まさに歴史の必然であり、人間の論をまたない神の予定であろう(手島郁郎)
●日本はアジアの試験場なり。
あたかもギリシャがヨーロッパの試験場なりしがごとし。
ヨーロッパの未来がギリシャによりて決せられしがごとく、
アジアの未来は日本によりて決せらるるなり。
日本人の採用する制度と、
その開発する宗教と哲学と芸術とが、
ついに東亜全体に普及し、
永くその模範となりて、
人類半数以上の運命を支配するに到るは、
ソロン、フィジアス、プラトーらの事業が
西洋文明の基礎を定めしがごとくなるべし。
よって知る、吾人日本人の責任は
わずかに同胞四千万の安全幸福にのみ止まらずして、
ヒマラヤ山以東に住する蒼生五億余の将来に関するものなることを。
この重大の責任あるを知る者にして、
いかでか軽佻浮薄なるをえんや(内村鑑三)
●欧米諸国においてすでに腐敗の兆を示したキリスト教を取って来て、
これを日本において復活し、これに新生命を与え、そして再びこれを
世界に伝布しようとする、これが私たちの天職ではないだろうか(内村鑑三)
●多くの先なる者が後にされ、後から来た者が先とされる
(マタイ19−30、マルコ10−31、ルカ18−30)
【神愛福音道】【聖書価値観】<神愛価値観:神愛世界観・神愛歴史観・神愛人生観>の
【神助道:神助精神・神助主義・神助本願・神助努力・神助本位】のお任せ人生で
日々直面する患難辛苦を【神愛特訓:オーディション!リハーサル!】と受け止め
【主イエス】再臨で地上誕生される<御国:千年王国・メシア的王国・神愛王国>の
本番舞台でエデンの楽園復活事業に【ビジョン:理想・夢望・念志】で参加する為に
<アーメン!ハレルヤ!主に感謝!>GLORY JESUS KINGDOM!先取神愛感謝で
皆さんが信仰的霊的成長で<神愛の智恵:聖書観力・霊感力・直観力>が与えられて
儀式的戒律的宗教観から脱却し超常識・超世間体の<信仰的新たな創造>に目覚め
<ビジョニスト:光の子・世の光・地の塩><福音の戦士>【福音の勢力】となって
【救国:民族精神復興&国体再建】【世界平和:神愛自由&神愛正義<隣人愛>結実】に
チャレンジし続ける活躍を心より応援しています!
●キリスト教は西洋の宗教ではない、また東洋の宗教でもない。
キリスト教はこの世の宗教ではない、天国の宗教である(内村鑑三)
●信仰の道はなんとたやすいことか、ただお任せすれば足りる。
そうすれば光明が私に臨み、能力が私に加わり、汚穢は私を去り、
聖霊は私に宿る。信仰は完全に達するための近道である(内村鑑三)
●主はこう言われる。
「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。
どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」
(エレミヤ記6-16)
●私(主)は目の見えない人たちを導き、彼らがまだ知らない大路に行かせ、
通ったことのない道を歩ませる。彼らの前で、行く手の闇を光に変え、
でこぼこの曲がった道を平らにまっすぐにする。
私はこれらのことを成就させ見捨てることはない(イザヤ書42-16)
●我らは信仰の行為によってのみ聖霊の獲得を確実にすることができる。
(聖書)研究によって霊欲を起こし、祈祷によってこれを呼び求め、
実行によってこれを獲得するのである。
実行はまことに最も有力なる祈祷である(内村鑑三)
●近代人が運動に頼るに対して、クリスチャンは祈祷に頼る(内村鑑三)
●絶えず祈るべし、祈祷をもって生命となすべし(内村鑑三)
●仕事は、すなわち祈祷(礼拝)なり(内村鑑三)
●理想を語るは夢を語るにあらず、未来の事実を語るなり(内村鑑三)
●聖書は祈りの歴史であり、祈りが答えられた記録(賀川豊彦)
●<愛の奇蹟>(内村鑑三)
神は愛なり。
愛なるがゆえにかれは奇蹟を行い給う、
愛なるがゆえにかれはこの驚くべき宇宙を造り給えり、
愛なるがゆえにかれは死者を甦らし給う。
愛のなすあたわざることあるなし。
神を愛と解してかれにつきて信じがたきこと一もあるなし。
愛は超自然なり。
愛なる神に関する記事と知りて
聖書は解するになんの難きところなき書たるにいたる。
●<われらの礼拝>(内村鑑三)
われらは、僧衣を着けて高壇に上がり、
聖書を朗読し、聖歌を吟唱し、手をひろげて天を仰いで祈り、
手を按(お)いて人に儀式を施し、もってわれらの神を礼拝せんとしない。
われらの礼拝は教会堂においておこなわれずして、
あるいは工場において、あるいは田畑において、
あるいは店頭において、あるいは書斎において、
その他われらが日々の事業に従事する所において、おこなわるるのである。
「仕事はすなわち祈祷(礼拝)なり」である。
われらはわれらの日常の仕事をもって神を礼拝せんと欲するのである。
礼拝の簡単または欠乏のゆえをもってわれらを責むる者に、
われらはこの事をもって答うるのである。
●真理は教会より大なり!(内村鑑三)
●<聖書と活けるキリスト>(内村鑑三)
聖書は大なり、
しかれども活けるキリストは聖書よりも大なり。
われらもし聖書を学んでかれに接せざれば、
われらの目的を達せりと言うあたわず。
聖書は過去における活けるキリストの行動の記録なり。
しかしてわれらは今日かれの霊をうけて、
新たな聖書を作らざるべからず。
古き聖書を読んで新しき聖書を作らざる者は
聖書を正当に解釈せし者にあらず、
聖書はなお未完の書なり、
しかしてわれらはこれにその末章の材料を供せざるべからず。
●キリストは教会の救い主にあらずして、世界の救い主なり。
彼は今や狭き教会を去って広き世界に偏在したまう。
キリストの教会は世界にして、会員は人類なり(内村鑑三)
●神は何らかの教会制度や、さらにある一定の学問の中に限られてはいない。
そのようなものがなくとも、神は自らを知らしめ給う(ヒルティ)
●教理を知らないでもクリスチャンである者が少なくない。
キリスト教は証明せらるべき教義ではなくて、
生活さるべき一つの生命である(ヘンリー・ドラモンド)
●神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方です。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。
(使徒行伝17-25~28)
ハレルヤ!栄光を主に帰します。
主の恵みに感謝します!アーメン
■【福音の三要素(信条)=救霊<【御霊】内住>の証し】
●キリストは、私たちの罪のために死なれた<十字架>
●死んで墓に葬られた<埋葬>
●三日目によみがえられ今も生きておられる<復活>(コリント前書15ー3〜5)
それでは今日も明日も素晴らしい人生をお過ごし下さい。
May grace and peace be with your spirit.
Good luck & God bless you!
異論・反論・疑問などメール歓迎します!
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田中 聡(さとし)